タラゴナからバルセロナに帰ったのは午後3時だった。まだ見る所がある。ということでサッカーファンの私は、FCバルセロナの本拠地カンプ・ノウ」に行ったわけである。

 カンプ・ノウは、バルセロナ北部のオフィス街に位置する。どことなく背筋を伸ばしたくなる雰囲気だった。ついにカンプ・ノウに着いた時、私は高潮していた。ある種「神殿」を訪れたような・・。といっても私はFCバルセロナ(通称バルサ)のファンではない。ただ私の大学のサークルの後輩がバルサのファンだったので、なじみがある。歴史的展開を知っているので、私はバルサに好意を持っている。
ちなみにバルセロナ市民に好意を持ってもらいたいがため、私は市内ではずっとバルサの帽子をかぶっていた(笑)。

 バルサレアル・マドリードと並ぶスペイン・サッカーの2大チームである。方や首都のチーム、方や第二都市のチーム。優勝回数も両者が1,2を争っている。

FCバルセロナ   国内優勝19回 欧州チャンピオン3回
レアル・マドリード 国内優勝31回 欧州チャンピオン9回


一目瞭然だが、バルサが後塵を拝している。バルサのマドリーへの対抗心は「巨人に対する阪神」のそれに例えられるが、歴史的怨念を考慮すれば、それ以上の敵愾心であると言っていい。両者の対戦はクラシコ(祭典)」と呼ばれ、スペイン中の注目を集める。ただし対抗心むき出しなのは、もっぱらバルサ側だが。

 バルセロナを中心とするカタルーニャ地方は言語も独特のカタルーニャ語」を使う。しかし中央集権を目指すフランコ独裁政権(1939〜1975)の時代、カタルーニャ語は徹底的に弾圧され、事実上禁止されていた。そんな中カタルーニャ語を話せる数少ない場所が「カンプ・ノウ」だった。ためにバルサは、カタルーニャの希望の星、シンボルとなったのである。
 
 しかしバルサ・ファンには辛い日々が続いた。1961年から1990年までの30年間にバルサの優勝はたったの2回。マドリーはその間20回近くの優勝と6回の欧州王者を勝ち取り、常にバルサの上を行っていた。別に独裁政権が意地悪をしていたわけではないだろうし、78年から民主化が進んでカタルーニャ語も復権したが、とにかくこの頃はバルサには暗黒時代であった。

 ようやく光明が見えたのは1990年代に入ってからである。かつてのスター選手であるヨハン・クライフ監督の下で「ドリームチーム」が完成し、スペインリーグ4連覇(91〜94)、そして92年に初の欧州王者となったのである!92年はバルセロナ五輪が開催されたので、バルサの欧州王者は二重の喜びとなった。ドリームチームは「3点失っても5点取り返す」という超攻撃サッカーを展開し、しかも「最終戦での逆転優勝」を3度達成するなどのドラマチックさでファンを熱狂させた。
 
 このようにバルサの特徴は攻撃サッカーと歴史的展開が絡んだドラマ性」にあると言える。21世紀に入ってからも、ロナウジーニョ(ブラジル代表)を擁して、2連覇(05,06)と2度目の欧州王者(06)に輝き、トヨタカップで来日した。
 今年(2009年)はメッシ(アルゼンチン代表)を中心に「芸術的」と評される攻撃サッカーを展開し、国内では19度目の優勝、そして欧州チャンピオンズリーグでは前年王者マンチェスター・ユナイテッドを破って3度目の欧州王者に輝いた。。

 このような歴史を思い出しながら、カンプ・ノウ内の「バルサ博物館」を見学した。欧州王者のカップが心なしか輝いているようだった。う〜ん、スゴイ! 「バルサの赤と青のチームカラーは、カタルーニャの象徴ではないか」とも思えた。
 バルセロナではもう一つ「エスパニョール」というチームがあるが(本拠地はオリンピック・スタジアム、2009年より中村俊輔が加入)、人気・実績ともバルサに遠く及ばない。バルセロナには大勢の移住者がいるが、彼等も地元に溶け込むためにバルサ・ファンになることが多いようだ。
 
 スタジアムツアーも2時間あっという間に過ぎた。9万人を収容するスタンドに圧倒されたり、普段選手が立っているグランドに降りて時めいたり(笑)、スペイン人の青年グループが選手のインタビュー場で物まねインタビューをしている様子が可笑しかった。

 こうして私のバルセロナの最後の一日が終わった。

カンプ・ノウ近くのオフィス街。
カンプノウ博物館はバルサ栄光の歴史を伝える殿堂である。写真は’92年の欧州チャンピオンのトロフィー。
FCバルセロナ(バルサ)の本拠地カンプ・ノウ。 9万人を収容する欧州最大級のスタジアムはカタルーニャ人の誇りである。
バルセロナ(カンプ・ノウ)

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