こうしてトレドは、キリスト教、イスラーム、ユダヤ教といった三宗教共存の地となった。興味深いのは、共存がキリスト教勢力のトレド奪還後も保たれたことである。
 
 トレドは1068年と、割合早い段階でキリスト教徒のカスティリャ王国(後のスペイン王国)」に征服されたが、しばらくはキリスト教徒の王たちも他宗教の存在を容認した。その方が利益は大きかった。

 中世においてはイスラーム世界が学問の分野で進んでいたので、キリスト教徒たちも意欲的にその知識を摂取しようとした。それは自然科学や哲学の分野で顕著だった。
 トレドでは翻訳学校」が造られ、ここでイスラーム世界の多くの書物がラテン語に翻訳された。その中には西欧では忘却されていた、古代ギリシア・ローマの書物もあった。これらの書物が西ヨーロッパ各地に移入され、後のルネサンスの基盤となったのである。
 その名残りはかなり後の時代まで保たれた。セルバンテスの証言によれば、16世紀当時もアラビア語を理解できるムスリムイスラーム教徒がトレドに多かったという。
 建築でも、「ムデハル様式というキリスト教とイスラームの様式が混交した建物が多く建てられ、今でもかなり残っているという。

 しかしこの「三宗教共存」の場は、近世に入る頃から「整理」が行われるようになる。まず1492年にユダヤ教徒がスペインから追放された。イスラーム教徒は約100年遅れて、1609年に追放令が出された

 なぜこのような追放令が出されたのだろうか? 
 それは「一つの宗教で以って国家を統一せねば秩序を保てないという認識が支配者や国民の間で起こってきたからである。やや遅れて、フランスやドイツでも国内の主流宗派以外の教徒が追放されている。スペインは異なる宗教が並存するだけに、その緊張関係がより先鋭化したと言えるかもしれない。
 もちろん「共存の時代」も相互に気を遣いながら「微妙な均衡」が保たれていたのだろうが、その状況が法令で強制的に「整理」されたことで、後の「国民国家」につながる一枚岩体制が整えられたのは事実である。

 しかし経済的にはこの「つけ」は大きかった

 まず金融業者が多かったユダヤ教徒20万人を追放したことで、金銭が社会に循環しなくなった。そして新産業への投資も行われなくなって、大雑把に「貴族」と「農民」だけが存在する社会となり、社会全体が停滞することになる。
 次に50万人を数えたイスラーム教徒は農民が多かったと言うが、その追放で社会全体の生産力が激減した。農業が主産業の社会で、その労働力が激減すればどうなるか、火を見るより明らかだ。直接的には「耕作放棄」された農地が増大した。また灌漑設備はムスリムが主に維持管理していたが、その追放で当然ながら荒廃した。
 この二つの追放令は、スペインを「後進国」に転落させたのである。

 こうして「三宗教共存の地」はいったん断絶した。

 しかし現代にいたって、その歴史の見直しが行われ、ユダヤ教徒やムスリムの役割を積極的に評価しようという動きが主流になりつつある。後に知ったが、トレドの大学ではヘブライ語、さらにアラビア語の受講者が増えているという。
 トレドは「ハイブリッド」だった中世期の輝きを取り戻そうとしているようだ。
 
ところで私はスペイン人の女性ガイドに英語で話したが、私が

シナゴーグユダヤ教寺院はどこ? イスラーム教徒の居住区はどこにあったの?

と質問すると、喜んで色々教えてくれた。他のツアー客は仲間内で話していたので、質問してもらったのが嬉しかったらしい。他にも私が古代ローマやイスラーム時代の歴史の話をすると、喜々として応じてくれた。

 私はお礼にバルセロナで使われる「カタルーニャ語」を教えたら、彼女は喜んでくれた(笑)。
 
 帰りの時刻は既に6時過ぎていたが、夕方のトレドは美しかった。タホ川に架けられた中世の橋も美しさが増していた。この川は西行して、ポルトガルのリスボンに流れるというが、そう聞くとまた新たな感慨も湧く(ポルトガルでの呼称は「テージョ川」)。
こうして大きな満足感を持って、帰りのバスに乗り込んだ。

 なお、トレドでは他にエル・グレコの史跡も回ったが、その話については稿を改めるとしよう。
トレド

ハイブリッドな中世都市(後編)

トレド大聖堂と旧市街の建物
トレドの伝統工芸「彫金」。
夕闇のトレド・アルカンタラ橋で。
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