トレドと言えばエル・グレコである。グレコは、ベラスケスゴヤと並ぶ前近代スペイン三大画家」と称され、讃えられている。しかしその存在感は、他二者を圧しているであろう(ちなみに「近現代スペイン三大画家は、ピカソ、ミロ、ダリ)。

 このエル・グレコの足跡を訪ねるのが、トレド観光の一つの目玉である。
 
 私は、トレドでは「エル・グレコの家」があると聞いて楽しみにしていた。
 非常に残念なことに、今年2009年1月から改装工事が行われているので、入ることはできない。ここはエル・グレコの住居が廃墟になっていたところをある貴族が買い取って、記念館として作ったものである。内装や調度はグレコが生きた16、17世紀当時のものを揃え、グレコの作品が多数展示されているという

 というわけで、トレドで私が訪れたグレコの史跡は、サント・トメ教会のみだった。ここは彼の代表作『オルガス伯爵の埋葬』を展示している。しかし一作だけでは迫力も感動も乏しい。大聖堂にもグレコの作品はあったのだが、遠すぎてよく分からなかったのが実態だ
 やむを得ず、トレド旧市街を歩いて、グレコ在世時の様子を偲ぶほかなかった。ただグレコの作品は翌日のプラド美術館でたっぷり見たので、その渇望感は収まったが。

 グレコの経歴を述べておこう。

 彼は実はスペイン人ではなく、ギリシア人である。しかも「エル・グレコという名は、スペイン語でギリシア人を意味するあだ名である。彼の本名は

ドメニコス・テオトコプロス

といい、司馬遼太郎が「覚えられない」と評している。
 グレコの故郷は、ギリシアのクレタ島である。ここは当時ベネチア共和国の領土だった。このことは、彼が画家として世に出ることで大きな意味を持っている。

 当時、他のギリシア本土はイスラーム教徒のオスマン帝国トルコの支配下にあった
 ここでこの帝国のキリスト教徒支配について述べておこう。一般的には「重税や改宗の圧力にさらされていた」という印象があるが、事実ではない。
 イスラーム政権は一般的に、キリスト教徒やユダヤ教徒については税をある程度納めるだけで、その存在を許容していた。オスマン帝国も当然その政策を踏襲した。
 さらにこの帝国では、能力を認められれば、キリスト教徒でも「高官」として登用された。この「能力本位」の人材登用は、当時「家柄重視」の人材登用が行われていたヨーロッパ諸国の観察者から驚きと賞賛を以って語られている。この16世紀当時、オスマン帝国はヨーロッパ諸国を上回る繁栄を誇っていた。

 しかしイスラーム圏では、戒律で「偶像崇拝」を禁止されている関係で、絵画芸術が発達しなかった。もちろん細密画など宮廷絵画は大きな発達を遂げたが、総じてイスラーム圏では画家の地位は低かった。
 グレコが仮に、オスマン帝国領のギリシア本土で生まれたとしたら、画家になったにせよ、さほど有名にならなかったのではないか。キリスト教国のベネチアの領内で生まれたことで、後に画家としてキャリアアップする道が開けた。

 グレコは故郷を出た後、まずベネチアで絵画技術を学んだ。そして、大きな野心をもってキリスト教の中心地ローマに上った。「野心」とはバチカンの「システィナ礼拝堂」の天井画を描くことである。

 しかしここで彼は「舌禍事件」を起こしてしまう。
 ローマ教会のお歴々を前に、彼は自信満々でこう言ったのだ。

現在、礼拝堂の天井を飾るミケランジェロの作品は、裸体が多く非常にふしだらだ。私が新たに上品かつ神々しい作品を描いて進ぜよう

 ここで返ってきたのは、拍手、のはずはなく、野次と怒号の嵐だった。

アホか――ッ」「お前の方がふしだらじゃー!」とばかりに・・。



 グレコの「ビッグマウス」ぶりに呆れるばかりだが、「肌を見せることははしたない」というギリシア文化圏から来た彼にすれば、ルネサンス絵画のように肌をあらわにする作品には拒否感があったのかもしれない。

 とはいえ、舌禍事件の後遺症は大きく、グレコは、ホウホウの態でローマから追われた。そしてスペインのトレドにたどり着くことになる。(続く)

番外編

トレドに散ったギリシアの星 〜エル・グレコ考〜(前編) 

サント・トメ教会エル・グレコの代表作を展示する。 入口左手の人物像はトレドで生まれた彼の息子のもの。
グレコ当時の姿を今に残すトレドの全景
アルカンタラ橋はトレドの入口。 夕日に映えて美しさが増す。
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