(承前)
ここトレドで彼の才能は開花した。貴族や教会の求めに応じて作品を描きまくり、人気を博した。もちろんトレドの街を描いた作品も多い。トレドはいつしか「エル・グレコの街」として記憶されるようになる。
グレコ自身にもここは「終の棲家」となった。30代でこの街に住み始め、70代で亡くなるまでここにあったのである。入籍しなかったものの、妻を娶り、一人息子も得た。ちなみにこの息子は、後にトレド市の役人となる。
彼はここで「エル・グレコ」の呼び名を得たが、どうもそれをうっとうしく思っていたらしい。自作にはかたくなに、あの長い本名でサインし続けた。それはまあ「ギリシア人」としか呼ばれないのは嫌なわけで。
おそらく以下のやり取りが何十回となく繰り返されたのではないか。 「おい、グレコよ」 「それは単に“ギリシア人”って意味だろう。俺には“ドメニコス・テオトコプロス”って本名があるんだから、そう呼んでくれよ」 「そんな舌かみそうな名前覚えられるか。大体ここにはギリシア人はお前一人なんだから“グレコ”で十分だろう」 「あのなあ・・」 |
ところで彼の作品は、一見して同時代(16〜17世紀)の絵画とは著しく趣きを異にしている。一言で特徴を言えば、「幻想的」ということである。同時代の作品の主流は、ルネサンス絵画のように「写実性」を特徴とする。
私はプラド美術館でグレコの作品を多数見たわけだが、かなり強い印象を残している。
「写真みたいな絵が主流な時代に、こんな幻想的な作品を描いた”独創性“はすごいものだ・・」と。
しかしその独創性がゆえにグレコは長らく不遇な扱いを受けることになる。
生前も一時期は人気絶頂で王侯貴族並みの豪奢な暮らしを営んでいたが、徐々に注文数は低下。晩年は借金だらけで、困窮のうちにグレコは生涯を終えた。
そして当時「正当」とされたルネサンス絵画の基準から外れたグレコの作品は、死後過小評価されることになる。今となっては信じがたいことに、彼の名は300年にわたって忘れ去られていたのである。そして数多くの作品も散逸することになる。
その状況が改められたのは、19世紀後半になってからである。この頃、絵画の世界でもピカソを中心に「革新運動」が起こり、その流れの中でグレコが再評価されたのである。そして前述のように「スペイン三大画家」の筆頭とされるまでに至る。「大画家グレコ」の評価はこのわずか百年ほどのことだった。
以上の事実は、帰国してから知ったことだ。
その後、倉敷(岡山県)の大原美術館でグレコの作品を見たが、これは再評価時(20世紀初頭)に渡欧した日本人画家が買い求めた物である。おかげで「世界遺産」の絵画が日本でも見られるわけである。
私はグレコの作品に「幻想性」と共に、不思議な「陰影」と「温かみ」を感じたが、それゆえ数百年の時を超えて、人々を魅了するのだろう。
彼の生きた場所と作品を味わうことで、その背後の世界が感じられたのだった。
トレドに散ったギリシアの星 〜エル・グレコ考〜(後編)
トレド大聖堂。天井画にグレコが描いたものもある。 |
グレコの代表作「受胎告知」(大原美術館蔵、筆者所蔵の絵はがき)。 |
グレコの作品が多数展示されているプラド美術館(マドリード)。 |