A名古屋誕生!武士の「名古屋弁」とは?
「外で食べるとは何事だぞよ!ちゅうわけでやられちゃったわけですわノン。」
「ええ年からげて何してござる!というわけでやられやーたわノン
「それを取らっせ!ちゅうわけで、取り上げられてノン
「いまだに思い出すぎゃん。」


「〜ノン」は文末詞で(〜ねえ)の意味だが、明らかに三河弁の語尾である(特に東三河)。「〜ぎゃん」も「〜がや」と同じであろうが、三河弁的にはねる発音が特徴的だ。実際の発音は「がん」と「ぎゃん」の中間的なものだろうか。
 このように尾張藩の武士の言葉は三河弁的な特色が濃い。尾張藩は徳川御三家の筆頭(62万石)で、幕末まで変わらず尾張を治めた。藩士の構成は徳川譜代の三河武士が主体だったわけで、言葉も三河の特色が濃いのは当然だろう。ただ尾張の庶民とまったくの没交渉だったわけではなく、また尾張土着の武士もいくらか召抱えたようで、言葉でも尾張のそれから少なからず影響を受けたことはうかがえる。しかし基本的に武士は庶民と一線を引くもので、庶民と同じ言葉をしゃべるなど言語道断だったろう。武士の家庭では、武士らしい風格を保つように言葉使いをしつけるのが流儀だったようで、近代以降も長くその特徴は継承されたらしい。

 ここで一言、一般的な誤解に対して言っておきたい。「武士は標準語(武家共通語?)をしゃべっていた」という誤解に、である。
 結論から言えば、各藩の武士はそれぞれ特徴ある武士の方言をしゃべって生活していたのである。参勤交代で江戸に行くことはあったが、人数は限られていたし、基本は同じ藩内での生活になる。方言を話すのが普通だったのは当然だろう。
 ただその方言が庶民と同じ言葉でないのも事実である。どのように違うか。一般的な特徴を2つ挙げれば、

  ・教養があるので、やたら漢字熟語を使う(例:軽々しい→軽操(けいそう)、考え→存念、所存)。
  ・古典文語の言い回しを使う(例:「致(いた)す」「存ずる」「仕(つかまつ)る」「召(め)さる」など)。

となる。他国の武士と話す時は敬語を使い、「〜でござる」など武家共通語の言い回しも定着していたようで、多少方言の特徴を交えながらも、共通語的な言葉になった。そのため他国者同士でも会話が通じ合えたらしい(この項、『近世武家言葉の研究』を参照)。
 各藩の武士の方言については、それぞれ成立事情が違うので一概には言えない。尾張藩については上記の通りである。薩摩など土着の藩は庶民と同様の方言だったろうが、転封が多かった藩は当然庶民とは断絶がある。桑名藩(三重県)などは江戸後期に東北から移ってきたので、武士の言葉は東日本的なものだったらしい。あと『功名が辻』で有名な山内家土佐藩)は発祥の地は当然尾張だが、土佐藩の武家言葉は上士においても土佐弁を主流としていたらしい。身分差はあっても、ことばに関しては大多数の土佐人の波に飲み込まれたということであろう。
 

次に取り上げるのは、町人の名古屋弁である。これは「上町(うわまち)ことば」と「下町ことば」の2つに大きく分けられる。

 まず「上町ことば」とは、は名古屋の城下町の中心部で用いられた言葉だという。先行研究によると、「上町」の範囲は中区丸の内などを中心に東区の徳川町、西区城西あたりまで。その辺りは商家や料亭が多かった。そのせいか、「上町ことば」は「洗練されている」「上品」というイメージで語られる。主な特徴とされているのは、「〜なも」を初めとする敬語表現が豊富なことである。下はその具体例で、『名古屋方言の研究』に収録されている「上町ことば」である(収録年代は1952年)。

「こんなところでなんでござりまするに、ちょこっとそこまでおあがりおそばいてちょうでーいあすばせ
ありがとうござりまする。・・・やっとかめで、名古屋へ出てまーりましたものだで、、ひょっとしたらお目にかかれたらと存じまして、寄らせていただきましただけでござーいますもんだで


いつも誰もがこのような敬語体で話すわけでもないと思うが、敬語を使うことが多いので、「上品」と言われたのだろう。あと「上町」には料亭が多かったと言うが、ために「上町ことば」には「芸者言葉」のイメージが含まれることがあるらしい。次に引用したのは、かつて芸者をやっていた人の談話例である(収録は1980年前後、以下の引用は『東海のことば地図』より)。

「(自分達は)『やっとかめだなも』と言うんだわなも。『おまさん』は悪い言葉だわ。『来やせんぎゃあ』の『ぎゃあ』−ここんとこちょっと名古屋弁ではあんまりいい言葉ではにゃあわなも。」(一部、平仮名を漢字に、カタカナを平仮名に改めた)

「〜なも」は(〜ねえ)の意味で、「そうだわなも」=「そうだねえ」ということである。語源は「〜なあ申し」で、明らかに敬語である。『坊ちゃん』に出てくる愛媛の「〜
ぞなもし」と同根の語尾である。武士の「〜ノン」に対して、町人の「〜なも」だったわけだ。これが多用されるのが「上町ことば」で、特に花柳界で多かったという。だから「『なも』というのは花柳界の言葉」というイメージを持つ人もいるらしい。ただ詳しく見ると、必ずしもそういうものでもないらしい。男性でも上町の旦那衆は「〜なも」を使わないと失礼だったというのが、次の談話である(談話者は1910年生まれの御園座社長(収録当時))。

「三菱、三井の荷主さんには、ふつうの言葉で、「ではそういたしましょう」といえば通じるんです。ところが名古屋の荷主さんには、名古屋の最も丁寧な言葉「そういたしまするでございまするわ
なも」。三菱や三井さんに話すような口調で行くと「生意気だ」とこうなる。」

「〜
なも」だけでなく「〜してちょうで遊ばせ」のように「遊ばせ」というのも上町ことばの大きな特徴だったようだ。


次に「
下町ことば」である。これはよく知られる大須を中心に、名古屋の城下町周辺の農民や熱田や市場を中心に用いられ、現在のいわゆる名古屋弁の基本となった言葉だという。「赤い→あきゃ」「大根→「こん」などの連母音や、「がや、がね」などの終助詞を多用することが特徴で、年輩の名古屋市民には「汚い言葉」のイメージを持つ人が多いらしい。まず中区新栄の年配女性と男性の会話例。
 
「・・言わなあかんがね、あんた。・・・」
「・・町内(ちょうな)でやってくれってってー。高いとこだもんだで。・・」

もう一つ、
 熱田区の、明治末ごろ生まれの老人のことばを引用する。こちらは漁師町のせいか、ラ行の発音がべらんめえ調になっているのが特徴だったらしい。

「名古屋の台風(ふう)はおそげ無(けど〔恐くないけど〕、水が入(で、おそげって。・・・何もで、配給(きゅう)になっとるでなー。彼ら、そのー、下宿しとるんでから、間借りしとるもんだで。・・・うちでも居(りゃあてって一年、あの二ヶ月ばかおりましたがねー。」



以上、2つの例を挙げたが、よく漫画などで使われる「ギャグ的イメージ」とは距離があるように思う。どちらかと言えば素朴な感じである。私も80歳ぐらいの人の名古屋弁を聞いたことがあるが、「ほんでよー」とか「何もねでよー」「あれせんのだわ」など「いかにも名古屋弁」という感じだったが、下品だとは思わなかった。その人がゆっくりした調子で話したので、どちらかと言えば「上品」な印象を受けた。これは私の印象だが、よくマスコミなどで言われる「汚い名古屋弁は誇張された姿ではないだろうか。連母音の「みゃあみゃあ」などは公の場では控えられるし(当人達もわきまえているのである)、「がや、がね」はある程度気持ちが高ぶった時に出る語尾だという気がする。普通は「〜だわ」「〜だで」が多いと思う。大阪弁についてもそうだが、強烈な表現ばかり誇張して「汚い」とか「乱暴」とか単純なイメージで語られるのが多過ぎるのではないか。名古屋弁の個性を強調したい気持ちも分かるが、その結果マンガチックなイメージが流布されているのは、当の名古屋弁(及びそれを話す人)にとっていいことなのか疑問である。普通の話言葉なのだから、強烈な表現と穏やかな表現、という具合に多面的に紹介すべきと思うが。

 さらに言えば、イメージと実態のギャップ というのが名古屋弁の場合、とりわけ大きいというのが私の印象である。
東区徳川町にある徳川園。尾張徳川家の別邸で、戦災で焼失した。現在のものは近年に再建。尾張徳川家所蔵の美術品を集めた「徳川美術館」が併設されている。この辺りは「上町」に含まれ、武家屋敷が軒を連ねていた。今もほのかにその雰囲気を残している。
かつては「上町」の一角を占め、商家が軒を連ねていた中心部。「碁盤割地区」と呼ばれていた。戦災と戦後の開発で、城下町の面影をしのばせる物は全くない。
1607年家康の九男・徳川義直が尾張・清洲城主となった。3年後に清洲城が廃され、人口7万人の城下町全てが名古屋に移ることになった。こうして尾張藩が成立した。
 この尾張藩の武士がどのようなことばをしゃべっていたのか?よく知られているような名古屋弁で話していたのか? どうもそうではないようだ。ここで紹介するのは尾張藩の武家言葉」、すなわち「武士の名古屋弁」である。
 その実態だが、江戸時代については史料が全く無いので、不明である。ただし昭和に入ってから名古屋の旧士族の子孫の会話が『名古屋方言の研究』に収録されている。これは昭和29(1954)年、旧士族の子孫の言葉を録音したものであり、以下はいくつか引用したものである。


「これはおばあそん、去年えらい大病だったそうだが、ええ顔しとらっせるノン
おとっつぉんもむつかしい人だったわノン
名古屋城大天守閣。この城の完成で、名古屋は清洲に代わって、新しい尾張の都となった
B「そうだなも」 町人の名古屋弁
熱田神宮。三種の神器の一つ「草薙の剣」が所蔵されている。信長寄進の「信長塀」もある。
東海夢華録の表紙へ戻る
次のページへ