次に取り上げるのは、町人の名古屋弁である。これは「上町(うわまち)ことば」と「下町ことば」の2つに大きく分けられる。
まず「上町ことば」とは、は名古屋の城下町の中心部で用いられた言葉だという。先行研究によると、「上町」の範囲は中区丸の内などを中心に東区の徳川町、西区城西あたりまで。その辺りは商家や料亭が多かった。そのせいか、「上町ことば」は「洗練されている」「上品」というイメージで語られる。主な特徴とされているのは、「〜なも」を初めとする敬語表現が豊富なことである。下はその具体例で、『名古屋方言の研究』に収録されている「上町ことば」である(収録年代は1952年)。
「こんなところでなんでござりまするに、ちょこっとそこまでおあがりおそばいてちょうであーいあすばせ」
「ありがとうござりまする。・・・やっとかめで、名古屋へ出てまあーりましたものだで、、ひょっとしたらお目にかかれたらと存じまして、寄らせていただきましただけでござあーいますもんだで」
いつも誰もがこのような敬語体で話すわけでもないと思うが、敬語を使うことが多いので、「上品」と言われたのだろう。あと「上町」には料亭が多かったと言うが、ために「上町ことば」には「芸者言葉」のイメージが含まれることがあるらしい。次に引用したのは、かつて芸者をやっていた人の談話例である(収録は1980年前後、以下の引用は『東海のことば地図』より)。
「(自分達は)『やっとかめだなも』と言うんだわなも。『おまさん』は悪い言葉だわ。『来やせんぎゃあ』の『ぎゃあ』−ここんとこちょっと名古屋弁ではあんまりいい言葉ではにゃあわなも。」(一部、平仮名を漢字に、カタカナを平仮名に改めた)
「〜なも」は(〜ねえ)の意味で、「そうだわなも」=「そうだねえ」ということである。語源は「〜なあ申し」で、明らかに敬語である。『坊ちゃん』に出てくる愛媛の「〜ぞなもし」と同根の語尾である。武士の「〜ノン」に対して、町人の「〜なも」だったわけだ。これが多用されるのが「上町ことば」で、特に花柳界で多かったという。だから「『なも』というのは花柳界の言葉」というイメージを持つ人もいるらしい。ただ詳しく見ると、必ずしもそういうものでもないらしい。男性でも上町の旦那衆は「〜なも」を使わないと失礼だったというのが、次の談話である(談話者は1910年生まれの御園座社長(収録当時))。
「三菱、三井の荷主さんには、ふつうの言葉で、「ではそういたしましょう」といえば通じるんです。ところが名古屋の荷主さんには、名古屋の最も丁寧な言葉「そういたしまするでございまするわなも」。三菱や三井さんに話すような口調で行くと「生意気だ」とこうなる。」
「〜なも」だけでなく「〜してちょうであー遊ばせ」のように「遊ばせ」というのも上町ことばの大きな特徴だったようだ。
次に「下町ことば」である。これはよく知られる大須を中心に、名古屋の城下町周辺の農民や熱田や市場を中心に用いられ、現在のいわゆる名古屋弁の基本となった言葉だという。「赤い→赤(あきゃ)あ」「大根→「であこん」などの連母音や、「がや、がね」などの終助詞を多用することが特徴で、年輩の名古屋市民には「汚い言葉」のイメージを持つ人が多いらしい。まず中区新栄の年配女性と男性の会話例。
「・・言わなあかんがね、あんた。・・・」
「・・町内(ちょうなあ)でやってくれってってー。高いとこだもんだで。・・」
もう一つ、 熱田区の、明治末ごろ生まれの老人のことばを引用する。こちらは漁師町のせいか、ラ行の発音が「べらんめえ」調になっているのが特徴だったらしい。
「名古屋の台風(てあふう)はおそげあー無(な)あけど〔恐くないけど〕、水が入(へあ)るで、おそげあーって。・・・何もなあで、配給(へあきゅう)になっとるでなー。彼ら、そのー、下宿しとるんでねあから、間借りしとるもんだで。・・・うちでも居(い)りゃあてって一年、あの二ヶ月ばかおりましたがねー。」
以上、2つの例を挙げたが、よく漫画などで使われる「ギャグ的イメージ」とは距離があるように思う。どちらかと言えば素朴な感じである。私も80歳ぐらいの人の名古屋弁を聞いたことがあるが、「
ほんでよー」とか「
何もねあでよー」「
あれせんのだわ」など「いかにも名古屋弁」という感じだったが、下品だとは思わなかった。その人がゆっくりした調子で話したので、どちらかと言えば「上品」な印象を受けた。これは私の印象だが、よくマスコミなどで言われる「
汚い名古屋弁」
は誇張された姿ではないだろうか。連母音の「
みゃあみゃあ」などは公の場では控えられるし(当人達もわきまえているのである)、「
がや、がね」はある程度気持ちが高ぶった時に出る語尾だという気がする。普通は「〜
だわ」「〜
だで」が多いと思う。大阪弁についてもそうだが、強烈な表現ばかり誇張して「汚い」とか「乱暴」とか単純なイメージで語られるのが多過ぎるのではないか。名古屋弁の個性を強調したい気持ちも分かるが、その結果マンガチックなイメージが流布されているのは、当の名古屋弁(及びそれを話す人)にとっていいことなのか疑問である。普通の話言葉なのだから、強烈な表現と穏やかな表現、という具合に多面的に紹介すべきと思うが。
さらに言えば、
イメージと実態のギャップ というのが名古屋弁の場合、とりわけ大きいというのが私の印象である。