(6)名古屋弁って、どうして変わったの? 〜ヴァーチャル名古屋弁史〜

なぜ? 共通語と名古屋弁のボーダレス化
   はじめに書いたように、今の名古屋のことばはかなり共通語(ないし東京語)と「ボーダレス化」している。よその人がちょっと聞いただけでは共通語と変わらないとしか思えないし、地元民の間でも「名古屋弁をしゃべっている」という意識がかなり薄くなっている(方言意識の空洞化?)。全体的に名古屋は共通語主流社会」になっていることは間違いない「イメージ図1:名古屋弁と共通語の境界線消失」を参照

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◎名古屋弁 → 名古屋式共通語、か

   今の名古屋の言葉は、共通語化が進んだといってもところどころに名古屋弁的特徴が現れるし、東京語の影響を受けても独自の変化をとげている部分も多い(純粋・名古屋弁とのつながりもある)。その辺りがあまり知られていない(地元民も分かっていない)だけに興味深い。今の共通語化した名古屋弁はよそ者にも抵抗が少なく、「地域共通語」として広まる流れが出てきている(まだあまり範囲は広くないが)。
 しかし昨今の「元気な名古屋の発展により人口は増加し、「東京語化」が加速しているようにも思われる。
 はたして、このまま完全な「東京弁との同化」が進んでしまうのか。それとも、地元への愛着の深さから「ある程度の名古屋的特徴」を維持するのか。今はまだ予測しがたい。

   未来の名古屋人は、はたして名古屋弁をしゃべりうるのだろうか・・。 

◎発展する名古屋と移住者の流入

   そうなったのは名古屋の位置づけというものに原因があると思う。名古屋が大都市になったのは明治以降である。江戸時代でも金沢と並ぶ全国でトップクラスの城下町だったが(当時の人口は推定5万人)、3大都市だった京都大阪には遠く及ばなかった。明治以降に3大都市圏の一角に成長したが、この時までに名古屋の影響圏が非常に狭い範囲だったことが後々影を落とすことになったようだ。
  名古屋は周辺の異質な方言に囲まれる形になっていた。一番近いと言われる「岐阜」の方言にしても名古屋弁とはかなり違っていたし、ましてや三河三重県のことばは全く違う系統の方言だった。特に大正から昭和初期の大発展で名古屋には周辺部を中心に多くの人々が流入してきたが、よそ者たちは名古屋弁を使おうとしなかった。元々周辺地域の人々は名古屋弁を嫌っており、また名古屋人たちも自分達のことばに根強いコンプレックスを持っていたようで、ことばについては名古屋は、東京や関西のように「大都市の威光」を発揮できなかったのである。こうしたことが合わさって、広い範囲のコミュニケーションには共通語に近づいた名古屋式・共通語」とも言うべきことばを使うようになったのだろう。


◎名古屋人のコンプレックス?

   ただ名古屋の街は地元民の比率が大都市のわりに異常に高い名古屋で生まれ育った人の7割以上(!)が就職後も名古屋に住むというデータもあるし、他地域から流入する人の数もさほど大きなものではない。。とすればよそ者の大量流入よりも、名古屋人自らが自分達のことばを変えたことが大きい、と考える方が真実に近いかもしれない。これには名古屋人の、あまり自己主張をしたがらず『普通志向』が強い、という気質も関係しているのだろうか?。こうした流れが昭和30年代以降徐々に日常の仲間内の会話にまで浸透した結果が、現在の共通語との「ボーダレス化」なのだと思う。ただ私自身は中年以上の人に話を聞いておらず、上で書いたことはかなりな部分、私の想像である。間違ってたら地元の方、指摘してください。


◎名古屋のブラックホール

 複数の名古屋の人から「中学ぐらいまではバリバリ名古屋弁使ってたけど、高校や大学に入ると、抑えるようになった(共通語っぽく話すようになった)」という話を聞いた。こっちは目を丸くして「なぜだ?」と重ねて聞いたら次のような答えが返ってきた。

なぜって・・。中学ぐらいまでは地元の狭い範囲の友達と付き合うだけだったけど、高校や大学になったら、交際範囲が広がるからだよ。
 名古屋は広いから、少し遠くの人と方言でしゃべったら通じないんだよね

金シャチが輝く名古屋城大天守閣。御三家・尾張藩62万石の居城。徳川家康が全国の大名を動員して作らせた「天下普請」の城だった。
二の丸付近には「織田信長 生誕地」の記念碑が建つ。

イメージ図2地域別 名古屋弁濃度サーチャ

あと、名古屋の周辺部の人で中心部に通勤している人からも聞いた。

家では、バリバリの名古屋弁をしゃべってるけど、街の方に来るとちょっと抑え気味に話すんだよね

「抑え気味」というのは「共通語っぽくしゃべる」「東京語に近づけて話す」ということである。名古屋の中心部では、まるでブラックホールのように、方言が薄くなるようだ。これを筆者がイメージとして表わしたのが右のイメージ図2である。当たり前かもしれないが、
  
  周辺部では名古屋弁色が濃く、中心部ほど名古屋弁色が薄い

という状況が見て取れる。具体的なスピーチ・スタイルとしては次のようになるようだ。

   周辺) どら(でら)可愛い子、来とるがー
         
   中心) スゴイ可愛い子、来とる(来てる)じゃん

つまり、どらでら)」や「がー等、いかにも名古屋弁ぽい単語や言い回しは、中心部では避けられる、ということである。このあたりの事情が、よその人に「名古屋では名古屋弁が聞こえない」と思われる大きな要因になっているのである。上で述べたような「広い範囲のコミュニケーションでは共通語に近付ける」という使い分け行動に則ってのことかもしれない。アンケート調査で「名古屋弁は家で主に使う」という回答が多いようだが、上の結果はこのことを裏付けている。
◎東京語っぽく話す  地方大都市の宿命?

 上で書いたような状況は、別に名古屋に限った話ではない。日本に限らず中核機能のある大都市には他地域からの流入者が多く、国家的な公用語が日常会話に用いられる傾向があるようだ。このあたりの事情を他地方の中核都市について見ていこう。
 
 東北の仙台の場合は名古屋以上に東京語との同化が進んでいる。もともと方言コンプレックスが強く、東京指向も強い。こうした中で新幹線開通後は東京との距離が縮まったし、地方中核都市、支店経済都市という性格上、東京との関係を深めざるを得ない。全国的に見ても、東京との地理的距離は近いから、東京の影響をモロに受けるのである。1980年代には東京語の影響を受けつつも独自色のある"新方言"が形成されかかったが、その後はなし崩し的な東京語への融合が進んだようである

 九州の福岡はよく、「地元に誇りを持ち、東京には反発すら抱いている」と言われるが、実態はけっこう複雑らしい。中心部で方言が薄くなるという傾向があることについては、程度の差はあれ、名古屋と同じようだ。ただ一直線に東京語化するわけではなく関西弁や、より共通語に近い(?)北九州市の方言の言い回しを部分的に取り入れる、という状況らしい。だから福岡の中心部では地元民も「そうタイ」「いかんバイ」などいかにも博多弁、というような言葉を話さないのである。私は旅行で福岡に行った際に若者の会話を観察したが、「そうなんよ」「あるんやろ」「いいやん」など東京語そのものではないが、かなり薄味の方言が主流であるようだった。在来の特徴としては「〜けん(理由の”〜から”)」は保持されているが、「〜たい(〜だよ)」は感情が高ぶったときのみ使われ、使用頻度は低くなったようだ。そもそも福岡の都市の性格は仙台と同様である。他地域から大勢の人が移り住む。そのため、どうしてもメジャーな、どこの人にも通じやすい言い回しでしゃべらなければならないのだろう。さらに最近では転勤者を中心に共通語話者も多く見受けられる。

 大阪など関西の人は、地元はもちろん、よそでも方言で濃い方言でしゃべが、これは「関西という土地柄の特殊性」によるのだろう。かつて京都は都だったし、江戸時代以降も日本の第二の中心としての地位を確保してきた。関西はずっと大量の移住者を受け容れながら地元の方言を維持してきた」のである。他の地方とは同列に扱うべきではないのだろう。さらに古くは落語・漫才、近年はバラエティ番組のトークを中心にマスコミで関西弁が流布している。このため全国の人に関西弁が理解できるようになり、これが関西人が他地方でも方言を話す上で大きな後押しとなっている。

N

星が丘テラス。若い女性向けの店が軒を連ねるので、「女子大小路」とも呼ばれる。名古屋市東部はこの20〜30年のうちに開発され、新興の住宅地やマンションが多い。
名古屋駅に近いミッドランドビル名古屋モード学園ビル。街には前衛的な高層ビルが建ち並ぶようになったが、名古屋弁に明日はあるのか・・。