ところでこの戊辰戦争の津藩の裏切り劇は桑名の地で後々まで語り継がれ、昭和初期まで桑名の人が津の人に会うや、

お前ら(津の人間)が裏切ったで(から)、わしらがひどい目に遭(お)うたんやないか!

と罵倒することがあったという。



明治維新後の廃藩置県で、伊勢、志摩、伊賀、そして紀州の東部から成る三重県が成立した。名古屋の発展によって特に北中部が中京工業地帯の一角を担うまでになった

 ここまで歴史を振り返ってきたが、伊勢地方は小勢力分立につけこまれる形で、 絶えず外部勢力に支配され、左右されてきた。また近世の天下統一に際して近隣の愛知、岐阜、滋賀の出身者が大名に出世するものが多かったのに伊勢のそれは皆無に等しい(志摩出身の九鬼氏は移封されて命脈を保った)。
 しかし伊勢商人の活躍や、冒頭で挙げた有名人を見ると、

出世欲は無くとも、 得意分野を研鑽して成功した人材が多いように思えるが、と思うのだが、いかがだろうか?

 まず古代律令制下では伊勢の国府は現在の鈴鹿市に置かれた。 この事実は、古代からこの地方において政治と文化の中心が別々だったということを示す。宗教・文化の中心である伊勢神宮は古代以来、国家的な庇護の下にあり、全国にその威光が伝わっていた。

 律令制は平安中期から荘園制へと変化する。こうした中で勢力を伸ばしたのは伊勢平氏だった。伊勢にある皇室や摂関家の荘園管理、そして伊勢湾の海上交易で富を蓄えたことが背景にある。これを足がかりとして、平安末期についに天下を握るまでになった。
 ところで平清盛と伊勢が関係あったようには思えないが、これは遺産相続に原因がある。清盛の父・平忠盛は、清盛には家督や京都周辺の権益を、そして清盛の異母弟・頼盛(平治の乱で源頼朝の助命嘆願をした池禅尼の子)には伊勢の所領や権益を与えたのである。後者は源氏が勝った後も所領保持を認められ、遅くとも鎌倉末期まで津市付近に平氏の所領があったらしい。
 以上のように、伊勢国は平氏の本領と言うべき勢力圏だったが、鎌倉時代になると関東武士が多く進出してきた。

 鎌倉幕府滅亡の後の南北朝時代、南朝方の北畠氏が伊勢に勢力を張った後醍醐天皇の腹心・北畠親房の三男の系統である。北畠氏は北朝方の室町幕府を苦しめたが、室町幕府による両朝合一により降伏した。しかし南伊勢の所領は安堵され、北畠氏は室町時代を通じて「伊勢国司として勢力を誇ったこのような状況は伊勢が鈴鹿山脈によって畿内とある程度距離を置いて接することができる地勢が関係していると思われる。 
 さて室町幕府は各国に守護大名を配置して全国支配したが、伊勢守護は仁木や土岐氏など転々とした後、室町中期以降一色氏に定着した。しかし北伊勢では奉公衆(足利将軍の直属家臣)やその配下の小領主が多く、一色氏は守護権力を確立できなかった。しかも北畠氏も南伊勢の守護として支配を認められていた。
 このように室町時代は、小勢力分立の伊勢、という情勢が定着した時期として位置づけられる。

 戦国時代に入ると、小勢力分立の形勢は強まった。以下、現在の市をどの領主が支配していたかを示す(上の図4.4参照)。

桑名・四日市 北伊勢四十八家、 鈴鹿・亀山 関氏(平氏系)、 
 長野氏(藤原氏系)、      松阪 北畠氏(村上源氏)  

北伊勢四十八家とは、現在の一町村規模を支配した小領主の集合体であり、その前歴は守護・一色氏や幕府奉公衆の配下だった。彼らは戦国期に入って、中央の影響が弱まると自立して分裂割拠していたが、「北方一揆」や「十ヶ所人数」といった地縁連合を作ってもいた。そんな中、南近江(滋賀県)の守護六角氏が特に前者と誼(よしみ)を通じて影響力を誇示していた。
 また北畠氏は松阪市近隣の多気町を本拠に勢力を伸ばし、、「伊勢の戦国大名」と呼ばれるまでになった。当時、伊勢神宮外宮門前町の山田は全国にスポンサーを持つことを背景に強固な町人自治を行っていたが北畠氏はこれを徐々に支配していった。また長野や関と戦いながら北伊勢に進出、さらに最盛期には紀州の東部や大和国宇陀郡(奈良県東部)にも勢力を広げた。 
 こうして見ると、伊勢の戦国時代史は京都周辺にありながら、かなり超然と域内の動きに終始していた」と言える。ここでも鈴鹿山脈が大きな障壁として役割を果たしていた。

 こうした伊勢に伊勢湾の海上交易を支配するため 織田信長の征服の手が伸びてくる。これは東隣の尾張の勢力による最初で最後の征服だった。信長は上洛の前後の二年(1568〜69年)にかけて伊勢を制圧した。そして自らの息子や弟を名族の養子に送りこむことで支配を固めた。すなわち

 三男・信孝→神戸かんべ(関氏の分家)  弟・信包のぶかね→長野氏  
 次男・信雄→北畠氏


上で述べたようにこれらの処置は、伊勢湾の海上交易の権益を握ることで経済力を強化することが理由だった。なお、北伊勢は滝川一益が長島城を本拠として管轄した。伊勢の武士達はこれらの織田家の武将の指揮下で「伊勢衆」として把握され、信長の統一戦争に従軍した。付け加えると、志摩出身の九鬼義隆が水軍大将として活躍した。
  その信長も長島一向一揆(1570〜74年)はかなり強敵として苦戦し、最後は大虐殺を行った後ようやく平定した。余談だが、私の地元周辺には、信長が陣を置いた寺や織田軍に討たれた一揆衆の鎮魂碑もある。

 こうして織田家の支配下にあった伊勢だが、本能寺の変後(1583年)に戦場となる。中でも亀山城攻防戦が名高い。これは京都・近江を支配する羽柴秀吉が柴田勝家についた滝川一益の勢力圏を攻めた戦いである。山内一豊が主役の大河ドラマ『功名が辻』で詳しく描かれていたが、秀吉の天下掌握を決めた賤ヶ岳の戦いの前哨戦として位置づけられる。この戦いは西からの勢力浸透の一環と言える。

 豊臣氏時代に入って当初は、織田信雄が北伊勢を支配したが(本拠は尾張)、南伊勢は蒲生氏郷など秀吉配下の小大名に与えられた。小田原攻めの後に信雄が改易されると、北伊勢も秀吉配下の小大名が分立することになる。
 関が原の合戦の頃(1600年)、主に次のような大名配置だった。

 桑名 氏家行広2万石   鈴鹿 滝川雄利2万石   
 津
 富田信高5万石     松阪 古田重勝3万石   

関ヶ原の合戦時でも東西両勢力の激突の場となった。この時西日本では西軍が圧倒していたが、近畿地方の一部で東軍に付いた大名がいた。大津城(滋賀県)の京極氏、丹後田辺城(京都府舞鶴市)の細川氏が有名だ。三重県地方でも安濃津城(津市)の富田氏ほかいくつかの大名がが東軍に付いた。西軍方の勢力が強い中で東軍に付いた安濃津城は格好の標的となり、毛利勢中心の西軍が大挙して攻めてきた。およそ10日間激戦を繰り広げたが、関ヶ原合戦の半月ほど前に降伏した。合戦の際に城主の奥方が馬を引いて出陣したという武勇伝もある。このように安濃津城の攻防戦は、関ヶ原の前哨戦として重要な戦いとなった
 伊勢はその地勢により、またも東西両勢力の角逐の場となったのである。

 江戸幕府の成立後は、徳川家康により本多忠勝桑名へ、藤堂高虎に置かれた。これは大坂に健在だった豊臣家を警戒してのものだった。江戸幕府の大名配置は、東の勢力による伊勢の前線基地化と言える。
 大坂の陣で徳川の天下が定まり、伊勢は東海道の整備と伊勢参りの隆盛で空前の繁栄を謳歌したが、政治的には複数の藩による分割統治だった。概略は以下のようになる(石高は幕末のもの)。

 桑名藩10万石、本多氏、松平氏)、  亀山藩6万石、板倉氏、石川氏など) 
 津藩
27万石、藤堂氏)  

なお津藩の領地は伊勢の中部と伊賀一国にまたがっていた(石高は当初32万石だったが、久居藩5万石が分家した)。津藩領の伊賀に生まれたのが松尾芭蕉である。
 また松阪を中心とした南伊勢は紀州藩(和歌山県と三重県南部)が支配した。国学者の本居宣長は松阪出身で、紀州藩の人だった。 四日市は中心部が天領(徳川幕府の直轄地)だったが、周辺農村部は桑名、津、紀州など周辺大藩の所領だった。一番極端なところではおしという埼玉の藩の飛び地があった。
 ところで伊勢神宮領を管理する役所として山田奉行所が置かれ、有名なところでは大岡忠相(越前守)が奉行を務めた。
 
 伊勢は割合平穏に江戸期を過ごしたが、幕末は激動に見舞われる。
 桑名藩主の松平定敬会津藩主・松平容保の実弟だったので、戊辰戦争では幕府軍についた。しかし津藩当初幕軍だったのが、鳥羽伏見の戦いの土壇場で薩長軍に寝返り、幕府方に決定的な打撃を与えた。幕末では伊勢国内の有力藩が倒幕と佐幕に分かれ、 かつ戦局に重大な影響を与えたのである

神宮徴古館(伊勢市)。伊勢神宮の宝物を展示する。ベルサイユ宮殿を模して明治末期に建てられたが、戦災で焼失。昭和30年代に再建された。
亀山城。 ここで秀吉の天下取り合戦の前哨戦が行われた。江戸時代は5、6万石の譜代大名が在城した。
松阪城。蒲生氏郷によって1586年に築城された。江戸期は紀州藩領となり、城代が置かれた。
桑名城内の本多忠勝像。徳川四天王として知られる歴戦の勇将。関ヶ原の合戦後、初代桑名藩主となった。
津城と開祖・藤堂高虎像。県内最大の32万石の城下町は県庁所在地となり、落ち着いた雰囲気を受け継いでいる。
 関ヶ原の合戦時にはその前哨戦の舞台にもなった。
美し国 波乱の軌跡

〜伊勢地方の歴史〜

ここでは伊勢地方の歴史を政治史を中心に概観する。前項で述べた地理的特徴が大いに影響しているのは言うまでもない。すなわち
東と西 角逐の場 ということが伊勢の歴史の基調となっている。「西」というのは大和朝廷など京都周辺の勢力であるが、「東」とは尾張の織田信長や関東を本拠とする徳川幕府を指す。そうすると、伊勢の歴史というのは

周辺の大勢力に翻弄される一方の受動的なもの

としか言えなくなる。しかしもちろんそれだけでもないということをここで述べる。
 これに関連する話だが、前項では伊勢・志摩の地理をもっぱら外部との関係で説明した。ここではさらに内部事情について述べておきたい。

 三重県は「伊勢」「志摩」「伊賀」「紀伊(東部)」の四つの旧国が集まったのでまとまりが悪いといわれるが、伊勢の内部でもまとまりが悪いのである。
 北から順番に見ると、桑名四日市鈴鹿松阪伊勢、と10〜30万の都市が並んでいる。そして政治的中心(=県庁所在地、津市、人口20万人)と最大都市(四日市市、30万人)が別々であり、これがまとまりの悪さに拍車をかけている。「県都突出型」の都道府県が多い中でかなり異質である。地形的にも南北に細長い平野が広がっているので、大きな都市が造られにくかったこともある
 以上の背景から伊勢の住民の間では

伊勢という広域的まとまりをあまり意識せず、さらに細かい生活圏への帰属心が強い

という認識が一般的である。それは
小勢力分立の歴史 から来ていることをここで縷々述べていく。

図4.4 :伊勢の戦国時代(1540〜1560年代)
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伊勢神宮の御正宮。自然と調和した姿が神秘性を高めている。

『三重県の歴史』『信長と伊勢・伊賀』の記述を参考に参考に作成。

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