〜伊勢方言の歴史〜

 近代以降になると、俚諺(方言語彙)だけでなく、具体的な文体も示した資料が現れる。その有力な例として大正から昭和初期にかけて伊勢地方を舞台とした小説のセリフがある。以下は『東海のことば地図』から抜粋した例文である。
 まず梶井基次郎『城のある町にて』では松阪方言が取り上げられている。

「帰っておいでなしたぞな
「云うとかんのがいかんのやさ
「帰ろ帰ろ云わんのやんな

次に丹羽文雄(四日市出身)の小説『青麦』では四日市方言が使われている。

「横着ものやで、困るやろ
「何と言うて詫びてええか、わからんだ
「お母さんは、やさしいお方やさかい

「〜やさ(=だよ、断定)」「〜やんな=だよ(断定)」「やで(=だから、理由)」「やろ(=だろう、推量)」「〜んだ(=なかった、動詞の否定過去形)」など現代に受け継がれているものがほとんどである。特に断定辞はじゃではなく、既にに変わっていることが伊勢方言の変化過程を示していて興味深い。以上から大正期に 伊勢方言の現在の語法が完成した  と言えよう。

九華公園桑名城跡)。徳川譜代と親藩の有力大名が在封した。戊辰戦争時に焼失し、石垣と堀にわずかな名残をとどめる。 由来不明ながら砲台も残されている。
(3)言の葉は世につれ

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ここでは伊勢方言の歴史を概観する。

 伊勢の方言はかなり早くから京都の影響を受けてきたことが考えられる。すでに伊勢参りの旅人の間で熱田尾張国から桑名伊勢に渡る間にことばが大いに変わる」ということは知られていたが、本居宣長はより具体的に述べている。

尾張より東は中央語である京都の言葉とかけ離れて訛りが強いが、伊勢はあまり訛りは強くない。ただしいく分かものの名前が田舎じみている

といった意味のことを書いている。つまり江戸中期にはすでに 伊勢の方言は京都とはよく似ていたが、 いくぶん独自性があったということ である。

 その実相を探るわけだが、江戸期については方言でも身分差が大きかったことが考えられる。ここではまず伊勢国において武士と庶民のことばがどれほど違っていたか考察する。

 まず県内最大で中伊勢と伊賀を領した津藩(藤堂氏、32万石→27万石)の武家言葉を取り上げる。津藩は藩祖・藤堂高虎が近江滋賀県出身で、秀吉時代には伊予愛媛県で在封していた。津に入ったのは徳川時代になった1607年である。このため、津藩の家中は伊勢からすれば外来者が多数だったはずだが津藩の武家ことばは庶民とそれほど違わなかった と思われる。

他地方の武家ことばについても、(階級差はありつつも)庶民のことばと基本的に同じことばを話す藩が圧倒的だったようだ。その傍証として、津藩と同じような来歴の土佐藩の武家ことばがある。藩主の山内家は尾張出身で、秀吉時代は近江や遠江(静岡県)を領していたが、江戸期は一貫して土佐を治めた。この藩は外来者の系統の上士と、土着の者が多い下士の階級差が大きかったが、藩内の武家ことばは同じような土佐弁だったという。少数の武家のことばが圧倒的多数の庶民のことばに飲み込まれたということだが、より具体的にその要因として、

上士の出身地が多様だったので、共通語として領内の方言が採用されたこと
領内を治めるために、庶民のことばを理解して使いこなす必要があったこと

の二つが指摘できる。津藩もこれと同じような状況が想定できるだろう。ただし以上は江戸期に一貫して同じ土地を領した藩の場合である
 
次に移封が多かった藩の例として、北伊勢の有力藩の桑名藩(10万石)の武家ことばを分析する。桑名藩の武家ことばは 庶民と大いに異なり、「一種の言語島」 だったことが資料から分かっている。下は桑名藩士の日記から抜粋したものである(彦坂佳伸 1984年より、表記を現代風に改めた)。

 しかし一方で丹羽の小説において理由の意味で「〜さかい」を使用しているのが気にかかる。私自身も全く使っている場面に遭ったことがない。だが、専門家の地元民への調査で
大正頃まで"〜さかい”を使っていた
ということが明らかにされた。おそらくそのセンテンスの長さで使われなくなり、「〜」専用となったのだろう。

 小説ではなく、実際の会話例を収録したものは昭和に入ってから多くなる。それを見ると、文体は現在と同様だが語彙で伊勢方言独自のものを使っていることが目に付く。下は伊勢市出身のプロ野球選手・沢村栄治が子供の頃(1920年代)のセリフである。

おたいはボールを投げるんや!

おたい」は伊勢市周辺で自称で使われていたらしく、今でも老年層がその名残の自称「おてえ」を使っているという。このような
語彙は、当然ながら共通語化している

 21世紀になった現代も変化の過程にある。「〜(するとさいが(〜すると)」や「おおきに(ありがとう)」など農村部の中年層でさかんに使われているものの、若い世代に受け継がれていないものが増えている
 それらの例を残さねばならないが、私がここで特に取り上げたいもので、「こそ〜ん」(行為の強調)というのがある。

私の父が新年会の幹事をした時、ある出席者の老人から電話がかかってきて、私が応対した。

「○○さんは来(こ)れやんのですが、私こそ行かんのです」
「? あの、来られるわけですね?」
「はい、私こそ行かんです。」

後で父に伝えて、次のような対話を交わした。

「”私こそ行かん”って、自分は来るわけか?」
「そうやろうなあ」
「”〜こそ行かん”って係り結びやないか(笑)」

後で専門書を調べると、北伊勢の一部で〜こそ〜んのような係り結びが分布するということが分かった。かつては中央である京都で使われていた係り結びの一部が三重県でわずかながら残っていたのは全く奇跡的なことである。

 このような貴重な方言の文法や語彙はまだ多いだろう。今のうちに記録されることが望ましい。
松阪城近くのお城番屋敷(松阪市)。松阪城の警護に当たった紀州藩士たちの武家屋敷を保存しており、風情ある景観を見せている。
鈴鹿山脈の一角を占める御在所岳のロープウェイ(菰野町)。四日市駅から電車で30分ほどのアクセスである。

(3)

 
「なんにもなえ
「うそ。だまかしなる。」
「おばさと寝るから、ええわえ
「おばばさだがや
「こたえられねえで
「帰らんせんかったげな

 桑名藩松平家(久松系)は高田(新潟県)→白河(福島県)と移動した末、1823年桑名に定着した断定辞の「〜」、「ない → ねえとする連母音融合理由の接続詞「〜から」などから、幕末の桑名藩の武家言葉は東日本的という結論が得られる。「〜だがや」や理由の接続詞「〜」、「せんかったなど否定の語尾を西日本的に「〜」とするところなどは異質だが、これが前任地の方言とどう関わるかよく分からない。
 逆に長らく桑名を領し、忍おし藩となった奥平家家中のことばが伊勢方言的なものだったか興味を惹かれるが、それを明らかにする資料が無いのが残念だ。

一方、庶民のことばは近畿方言の系統だった ことは間違いない。資料はあまり多くないが、雑俳が当該地の口語を伝えていることが多く、いくつか引用する(引用は『〜近世期方言の研究』より)。

「鼻が取れたじゃろて
「色白じゃろと思いしに」

これをみると、断定辞は「〜じゃ」であり、どこが近畿方言(関西弁)の「〜や」の系統なのか疑問に持つ人が多いだろう。しかし多くの史料から、江戸後期まで京都・大坂でも断定辞は「〜じゃ」であり、幕末から「〜に変化したことが明らかになっている。 このことから伊勢の方言が江戸期から京都と似たことばだったことは間違いないと言える。そしてその後の展開で伊勢においても京都の影響を受けて断定辞が「〜に変わったわけだが、そのようになったのは明治時代と思われる。
 一方で理由の接続詞が「〜」であることも注目される。さらに『三重県のことば』によれば、「出やん」のように動詞の否定形「〜やん」が既に現れているという。
 以上をまとめると、

 伊勢の方言は京都など関西弁(江戸期は「上方語」)の影響を多大に受けつつもある程度の独自性をもって発展した

と言えよう。

本居宣長旧宅(松阪市)。江戸期を代表する学者の彼は、ここで一生を過ごした。『古事記伝』などの名著はここで書かれた。
河崎商人町(伊勢市)。川沿いの町屋が水運で繁栄した往時の伊勢商人の姿を感じさせる。

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江戸期の伊勢の町を再現したおかげ横丁。 1998年のオープン以来、観光客の増加につながった。伊勢参りの歴史を学ぶと共に、店めぐりで楽しめる。
伊勢湾の光景。穏やかで美しい光景が広がる。安土桃山文化村の安土城天守にて。
津なぎさまち。津市と中部国際空港は高速船で結ぶ。かつての伊勢湾海上航路を復活させ、港も美しく整備された。