勢州言記

4.2

〜伊勢地方の方言〜

せい しゅう   げん   き

(1)関西と東海のはざまで 〜伊勢地方の地理誌〜

(2)美(うま)し国 波乱の軌跡 〜伊勢地方の歴史〜

(1)関西と東海のはざまで
図4.3: 東西と結ばれた伊勢地方

※ 青色の線は江戸期の東海道

ここでは伊勢地方の地理について解説する。 歴史的な展開を追っていくことになるが、政治史以外の地理誌的な記述になるだろう。

 本題に入る前に「伊勢」の地域名について断っておきたい。この項では旧「伊勢国の領域を指し伊勢神宮の所在地は伊勢市」と注記する。 このようなややこしい但し書きをせねばならないのは、昭和30年頃にかつての宇治山田市が改称に際して旧国名を使ったからに他ならない。伊勢神宮の所在地なので妥当性はあるが、歴史記述の際には使い分けに注意せねばならない。このややこしさは伊勢に限った話ではないが。
 また三重県の名の由来についても説明しよう。県名自体は明治初期には一時県庁が置かれた四日市が三重郡に属していたことに由来する。さらにその語源は『古事記』のヤマトタケル伝承にある。ヤマトタケルは東日本遠征から大和への帰途に当地にたどり着いたが、疲労の極に達して

「私の足は’三重(みえ)’に曲がってしまった(足が曲がるほど体がボロボロだ)」

と嘆いたという。この伝承は古代からこの地が知られていたことを示している。

 そのヤマトタケルだが、慕っていた叔母が伊勢神宮の巫女だったという。
 

〜伊勢地方の地理誌〜
 伊勢神宮がいつ頃成立したか正確には分からないが、大和朝廷が全国支配を固めた6世紀初頭にはすでにあったと考えていいだろう。皇室の先祖である天照大神を祀った由来は不明だが、奈良や京都から東行して初めて海を見、かつ日の出が昇る様がある種の神秘性を感じさせたのは間違いない。
 伊勢神宮には皇女が斎宮として派遣され、天皇の代理として祭祀を行った。それは都の文化が深く浸透することにつながった。
 
 なお志摩国は当初は伊勢国に組み込まれていたが、奈良時代半ばに独立したとして扱われることになった。皇室に伊勢湾の海産物を献上する「特別行政区」ということだったらしい。
 さてここまで述べたように伊勢国は都の近隣という地理的な利点があった。現在の伊勢地方(ならびに三重県の大部分)の方言が関西弁と同系というのも京都との近さが影響しているのは間違いない。
 ただ伊勢と京都の間には峻険な鈴鹿山脈がある。伊勢の方言はいくつか関西弁とは違いもあるが、それは鈴鹿山脈で両者の交通が限定されたことが大きいだろう。伊勢は関西とは付かず離れずと言った所が正確である。この地理的特性は後で述べる室町・戦国時代の政治史に関連している。

 伊勢にとって大きかったのは東の海(伊勢湾から太平洋)の存在である。これによって伊勢は東日本との海上交流の拠点という地位を獲得した。交通路といえば、現在では陸上交通が重視されるが、前近代では海上交通の比重はわれわれの想像以上に高かった。
 著名なのは、伊勢神宮の外港である伊勢大湊(伊勢市)、そして安濃津(津市)である。この両者は室町時代に西国と東国の産物を仲介する交易で大いに栄えた。意外に思われるだろうが、後者は中国の地理誌に
日本三津
すなわち日本の「三大国際港」として紹介されたほどだった(あと二つは博多と薩摩坊津(鹿児島))。もっともこの繁栄は戦国初期(1498年)の大地震で港が壊滅することで失われたらしい。前者は、この頃から高まりを見せた
伊勢神宮参拝に乗じる形で江戸期に至るまで繁栄を続けた。
 ところでこの海上交易による繁栄が
織田信長の進出を招くことにつながった。これについては後述する。

 伊勢国にとって
伊勢神宮の存在は圧倒的である。これによって全国から人が伊勢を訪れたのである。すでに室町期から始まった参拝熱は江戸期に入ると急激な高まりを見せた。当時、参拝者が全国に広がっているのは、伊勢神宮のほかに善光寺(長野市)しかなかった。これは京都のほかに江戸という中心が東に生まれ、東西交流の拡大が後押しした面が大きいだろう。平和の恩恵によって街道が整備され、陸上交通の利便性が増したこともあろう。
 こうして伊勢の街道筋の街々は伊勢参りの恩恵を存分に受けて空前の繁栄を享受したが、伊勢の人々は受動的なばかりではなかった。
 
三井高利といえば三井グループの創設者だが、その出身は伊勢松阪である。彼のほかに多くの伊勢商人が江戸で活発な活動を行ったことが知られている。彼らは伊勢に本家を置きながら、江戸に支店を出す者が想像以上に多かった。徳川家康が江戸を建設した時に多くの商人が移住したが、その中で傑出していたのが伊勢商人だったという。あまりの数の多さに江戸町人が伊勢商人を揶揄した俗謡も残っている。「大人しい気質」と言われることが多い伊勢人だが、それだけに伊勢商人の活躍には驚かされる。

 ところで隣の尾張との交流はさほど盛んではなかった 。もちろん海上交易はさかんに行われていたが、一体的な文化圏を形成するような人的交流は皆無だったと言っていい。その要因は、すでに述べたように木曽三川が両者を分断しているからである。同じく東海道が通じているが、尾張の熱田(名古屋市)からは伊勢の桑名まで海上七里を船で渡っていた。両者の方言が全く別系統なのはこのような交通事情が影響しているということは何度も述べた。

 もっとも近代に入ると鉄道が発達し、さらに名古屋が工業都市として大発展することでこの関係は大きく変化した。近代以降は伊勢は名古屋都市圏に組み込まれた
両者の違いは依然大きいものの、特に近年はそれに微妙な変化が生じている。

 さてここまで述べたように、伊勢は名古屋と関西という二大都市圏に挟まれているので、ともすれば埋没しそうである。
 しかしヨーロッパでドイツとフランスという二大国を間のオランダ・ベルギーが仲介して結びつけることでEUという国家連合ができたように、伊勢・志摩も名古屋圏と関西圏の二大経済圏を結びつけて広大な経済圏を形成することができるのではないだろうか。リニア新幹線がこの地方を路線とすることはほぼ決定しているし、このような構想も荒唐無稽ではないと思われるが、どうだろう。
斎宮歴史博物館(明和町)。斎宮(伊勢神宮に仕えた皇女)の最盛期の暮らしぶりをビジュアルに展示する。シックな外観もテーマと調和している。
東海道の宿場、(亀山市)。鈴鹿山脈が睥睨する。その西側は京都への道である。
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(3)言の葉世につれ 〜伊勢方言の歴史〜
(4)伊勢地方のことばって? 〜伊勢方言のイメージ〜@
(5)伊勢弁ってどう話すの? 〜伊勢弁の話し方・言い回し〜1
4.ミエ・ナーメの先頭へ
(6)これ、どういう意味? 〜伊勢方言の単語集〜
A
伊勢参りの賑わいを伝えるおはらい町(伊勢市)。伊勢名物の店が軒を連ねて楽しめる。

(1)

四日市港伊勢湾の光景。かつては東日本への海上交通の拠点だったが、近代以降は中京工業地帯の一角として発展している。