秀吉の天下統一(1590年)後、家康は関東に移封され、三河には豊臣家臣の大名が移ってきた。
     
    岡崎城) 田中吉正    吉田城(豊橋市)) 池田輝政

あまり知られていないが、現在の形で街が整備されたのがこの時代である。

 しかし関ヶ原の戦い(1600年)で勝利した徳川家康が江戸幕府を開くと(1603年)、三河出身の徳川家譜代は大名として日本全国に散った。一方、三河は親藩や譜代大名領、さらに天領や旗本知行地に分割された吉良上野介は旗本として先祖伝来の地である吉良町(西尾の隣)に領地を持っていた)。江戸時代の主な藩は以下の通りである。

     挙母藩(豊田市)2万石   岡崎藩5万石   西尾藩6万石  
     吉田藩(豊橋市)7万石   田原藩3万石


 三河には古くから国内の東西を貫く形で東海道が通っていたが、平和となったこの時代にはそのメリットが増加した。しかし
江戸期の三河は東海道整備で恩恵を受けたが、 政治的に小藩分立で有効な地域開発が行われなかった。特に西三河は矢作川の氾濫に対し各藩で一致した対策が採られず、発展が阻害された。

 明治維新による廃藩置県により三河は尾張と共に「愛知県」となった(1876年)。 戦後、三河はトヨタ自動車の本拠地として工業が集積して大きな発展を遂げ、名古屋大都市圏の一角を占めることになる。

A西だ東だ 三河の歴史と「いくつもの三河」
図5.3 三河 戦国期勢力図(1530年代)     
                            『愛知県の歴史』(山川出版)より作成
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 ここでは三河の歴史について述べる。一般的に、団結心の強い徳川家臣団のイメージからか、三河全体の気質や文化(三河弁も含めて)が画一的なものとして捉えられているきらいがある。しかし私も住んでみて分かったのだが、三河の中でも山間部、平野部、沿岸部と様々である。とりわけ西と東の違いは大きい。作家・宮城谷昌光(蒲郡出身)は、折に触れてそのことを歴史に絡めて語っているが、ここでの試みもそれと軌を一にしている。

 西三河(豊田・岡崎など)と東三河(豊橋など)では違いが大きい要因の最たるものが河川を基にした生活圏の違いである。
  
西三河  矢作川流域  
東三河  豊川流域

古代律令制下でも、当初は西三河のみが「三河国」で、東三河は「穂国」だったという(通説による)。その後奈良時代中期に両者を統合したが、中心地たる国府は東三河の豊川市に置かれた。畿内との交通を考えれば、三河湾の海上交通の要衝である豊川付近が便利だったようだ。

 平安末期の源平の戦いに際しては、三河の勢力は源頼朝に味方した。とりわけ既に前世紀から三河各地に勢力を持っていた足利一族の働きは目覚しく、足利氏は代々三河守護の地位を占めた。鎌倉期には足利氏の本家は関東にあったが、分家は三河で守護や地頭を務め、勢力を拡大した。意外かもしれないが、細川今川吉良といった氏族はこの地で誕生した足利氏の分家である。
 足利尊氏室町幕府を開くに際し、、三河の足利諸家が中心戦力となって貢献し、多くは幕府高官となって京都に進出した。
 室町期の三河の守護大名は当初は一色氏、後に細川氏に交代した(守護所は岡崎市北部と推定)。しかし足利家の地盤であっただけに、在地の豪族は直接幕府高官と結びつく者も多く、守護権力が弱いままだった。こうして室町期の三河は諸勢力分立 の傾向が強まった。なお松平氏は室町初期に西三河の松平郷豊田市東部の山中)にその姿を現し、幕府高官(政所執事)の伊勢氏の被官となることで勢力を拡大したという(京都周辺の戦いにも参加した)。
 戦国時代になると、三河の分立傾向は一層激化した(左上の図5.3参照)。当初は吉良氏が西三河沿岸部を中心に遠江までうかがうほどに勢力を誇ったが、一族が二派に別れて争ううちに衰微する。

 こうした中で松平氏が急成長し、全三河を席巻することになる。。既に応仁の乱(1467年)以前から着実に力を強めていたが、婚姻政策による分家の拡大によって西三河内陸の大部分を手中に収めた。ちなみに松平氏は「十四松平」と呼ばれるほど分家が多かった。これが拡大の主因だったが、同時に一族の分離傾向という弱点を抱え込んでいた。
 1507年に遠江を併合したばかりの今川氏が侵攻、東三河の諸豪族を屈服させ、西三河にも攻め入って松平氏を破った。この戦いで松平氏は惣領が戦死するなど大きな痛手を受けた。なおこの戦いには今川の客将にして当主の叔父の北条早雲が参加していた。しかしその後、今川氏も内紛や東部国境での北条や武田との対決により、三河に充分力を注げなくなった。この間隙を突く形で、松平氏が三河を統一することになるのである。
 
 松平氏7代目は松平清康(家康の祖父)である。1525年に15歳で当主となった彼は、一族の内紛を収め、三河各地に出兵し、わずかな数年で三河統一を成し遂げた。なお松平氏の本拠は、

             松平郷 → 岩津(岡崎市北部) → 安城

と山間部から平野部へ南下する形で移ってきたが、清康によって岡崎に本拠が移された。しかし松平家の三河統一は軍事的覇権に過ぎず、 松平分家や三河諸豪族の勢力は温存されていたのである。諸豪族は後に徳川譜代の大名となるものが多く含まれていたが、当時の立場は松平氏と対等だった。結果、1535年に清康が暗殺されると、諸家はあっという間に離反したのである。特に牧野氏はすぐに今川方に付き、吉良氏戸田氏は自立化行動をとった後、今川に屈服した。1540年代後半に今川氏は再び三河に進出し、松平氏も傘下において、三河での勢力を確立した。
 当時は今川義元の時代だったが、分国法の改訂や領国統治における近代的手法の導入などで全盛期を迎えていた。三河も大部分が今川氏代官の下で集権的支配を受けた。もっとも西三河内陸の松平領は松平家臣団による間接支配にあった。これが後に自立の基盤となる。この頃、今川氏で人質となっていたのが松平元康、後の徳川家康である。

 桶狭間での義元の戦死(1560年)により今川氏から独立した徳川家康は、諸豪族を破って三河の再統一に成功した。途中、三河一向一揆の蜂起(1563年)はあったが、鎮圧に成功、一揆を後援した吉良氏なども屈服させ、領国支配を完全に固めた。この家康の下で三河は再編され、それまでの諸家分立体制から脱却することになる。余談を言えば、これ以後に西三河内陸を基盤とする徳川家臣団の「質実剛健」「忠義に篤い」といった気質が全三河のイメージとして全国に流布することになる
 家康は三河統一後、自らの譜代の家臣に三河を二分して管轄させた。以下の通りである。

   西三河) 石川数正     東三河) 酒井忠次

家康は1570年に浜松に移ったが、岡崎城に長男・信康を置き、自らも岡崎城にしばしば滞在するなど決して三河がおろそかにされたわけではない。しかしその頃から武田氏との戦いが激化する。浜松付近の三方が原の戦いでは大敗し(1572年)、奥三河も武田軍の侵攻を受けた(武田軍は野田城(新城市)まで侵攻したところで撤退した)。しかし奥三河で行われた長篠の戦い(1575年)に勝利することで三河から武田軍は一掃された。

徳川家は松平郷(豊田市)から始まった。左は徳川家の菩提寺"高月院”。江戸時代は分家の"松平太郎左衛門家"が管理し、将軍家からも保護を受けた。 右は始祖"松平親氏の像”。
西尾城跡。戦国時代までは吉良氏の城があり、江戸時代は西尾藩6万石の居城となった。西尾は古い街並みが残り、「三河の小京都」と呼ばれている。
岡崎城内にある”三河武士のやかた 家康館”。家康と配下の三河武士の活躍をビジュアルに見せる。