近年復元された岡崎城の大手門
岡崎城天守から望む街の光景。家康はどのような光景を見たのだろうか・・。
B家康は「じゃんだらりん」と言ったか?
岡崎城天守閣と城内の龍城神社。家康を祀る。
松平郷の高月院
三河弁の特徴は、「じゃんだらりん」と言われる。ここで一つの疑問がわく。

   あの徳川家康も「そうじゃん」なんて言っていたのか?

あの堅いイメージで鳴る家康が今や若者言葉のイメージが強い「〜じゃん」を口にしていたとは到底思えないが、実際どうだったのだろうか?
 ここで念頭に置かねばならないのが、家康当時の三河弁と、今の三河弁は異なるということである。専門家の研究によれば、「〜じゃん」も「〜だらも出現したのは大正頃のことだという(「〜だら」の以前の形は「〜づら」)。だから家康が「そうじゃん」と言ったはずはないという結論になる
 しかし近代以前の三河弁の姿を知ることは難しい。最大の理由は言うまでも無く、資料がほとんど皆無ということである。名古屋弁の場合、江戸期についてもわりあい資料がそろっており、江戸語や上方語(京都・大坂)に次ぐ規模を持つ。しかし三河弁については雑俳などから断片的にしか手がかりを得られない。

 江戸中期の随筆『一朝一話』には「先づ年頃の方々は、立身せんと、朝公儀、皆三河言葉を似せ廻れり」(昔のお役人は、出世しようと皆三河弁を真似していた)という記述がある。新井白石も「江戸弁の元は三河弁」との記述を残しているという。この2つから、江戸初期については江戸の武士の間で三河弁が広く通用していたことが伺える。しかしその具体的姿は不明である。
 
 そこで違う材料から傍証を得ることにする。ロドリゲスの『日本大文典』によれば、「三河から日本の涯にいたるまでの東の地方では、一般に物言ひが荒く、鋭くて多くの音節を呑み込んで発音しない」とある。定説では、「買った」「払った」など促音のを多用することを指しているという(当時の公用語である上方語(京都語)では「買(こ)うた」「払(はろ)うた」)。
 しかし、現代の三河弁の一大特徴である「〜を文末に多用することもそれに含まれていると、私は考えている。差しあたって決定的な証拠は無いが、既に紹介した尾張藩の武家言葉が傍証になると思う。尾張藩の武士の中核は三河武士であったようで、その言語も三河弁の影響が強いことが指摘されている。「〜だったわのん」「思い出すぎゃん」といった特徴がそれである(第1章参照)。 ただしこれが収録されたのが昭和に入ってからだから、家康当時の三河弁の姿をどれほど伝えているか、疑問の余地がある。しかし武家言葉の保守的性格を考えれば、かなりな程度で家康当時の三河弁の特徴を後まで伝えたものと考えられる。
 以上の根拠や他の材料も合わせて考えれば、江戸初期の三河弁は、文末の「〜ん」の多用や断定辞「〜だ」を特徴とするものだったと推定できる。
 さらに『日本大文典』には、尾張から関東に至るまで「上げんず」「参らんず」など確実推量や意志の意味で「〜んず」を使っていた、と述べている(それぞれの意味は、「上げるだろう上げよう」「参るだろう参ろう」)。これは古典文語の「〜むずに由来するもので、三河だけの特徴ではないが、三河弁の姿を明らかにする記述として注目に値する。これに則ると、現代の三河弁が江戸初期のそれでは次のような言い方に変換されることが分かる。

   いいだら → よからんず      降るだら → 降らんず

付け加えると、大久保彦左衛門の『三河物語』で使われている「それがし」「われわれ」など武士の自称が元は三河弁だと指摘されている。

 とは言え、資料から明らかに出来るのはここまでである。

 ところで、津本陽の家康を主人公とした小説『乾坤の夢』では、家康の話す言葉を

「楽しむがよからあず
「真吉の忠死のおかげだがや
「いたすがよかろうだで

としているが、著者の他の小説における信長や秀吉の尾張弁との明確な書き分けはされていないようである。ゆえに当時の三河弁を再現したものかは疑問がある。
 家康個人の言語実態については、かつて京都風を志向した今川家で過ごしたことからその影響が想定されるが、裏づけが得られないので、これ以上立ち入らない。

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