(承前)

 内戦は結局フランコ側の勝利で終わり(1939年)、以後75年までフランコ体制が続く。フランコは伝統的なスペインの価値観によって民衆を統制し、かつてのスペイン帝国を再興することを目的とした。「民主主義は最も堕落したシステムということで葬り去られた
 「軍部独裁」な上に「ヒトラーの仲間」ということで欧米諸国から今に至るまで批判の声は絶えない。

 だがフランコは第二次大戦でヒトラーからの参戦要請をたくみに断わって、スペインを戦火の外に置いた。さらに戦後は「反共産主義」という共通項によってアメリカ支持を打ち出し、多大な援助を受けた。これによって1960年代以降「奇跡」と呼ばれる経済成長が実現した。また英米やドイツからの観光客が大量に訪れて貴重な外貨収入をもたらした。今に至る「観光立国スペイン」の萌芽である。

 しかし政権末期は高まる民主化や少数民族の自治要求を酷薄に弾圧したため、テロが頻発するなど不穏な情勢の中でフランコは死去(1975年)。後継者に指名されていた旧王家のファン・カルロス王子(現国王)が即位して、立憲君主制の下で漸進的な民主化を成し遂げた。これによりスペインは他の欧州諸国とも関係改善を遂げ、国際的地位を高めたのだった。

 先入観を廃して巨視的にフランコ政権を見ると、

@政治的な安定を実現し、今に至る発展の基盤を作ったこと

A後継体制を用意し、フランコ死後の混乱を回避したこと

はフランコの功績と言えるかもしれない。

 しかし「治安維持のための統制」に重きを置く余り、自由化・民主化を求める声を弾圧したのはやはりマイナスである。フランコに言わせれば「選ばれたエリートが民衆を厳しくしつければ、国家は平穏である。経済成長に目がくらんで自由化を進めれば、民衆は勝手なことばかりして安定は損なわれる」ということだろう。しかしそのような体制ではやがて発展も止まり、ジリ貧になっていくことは我が江戸時代を見れば明らかだ。
 さらにフランコ自身は清廉潔白であっても、政府幹部が利益追求に走って腐敗が進んでいたことも見逃せない。これは「競争原理」が働かない政治的独占体制では起こりうる現象である。また反対派への残虐な弾圧も批判せざるを得ない。政権末期にはその弾圧コストが臨界点に達して、大きな転換が必要とされていたのである。

 全体的に見てフランコ体制は発展途上国が成長するためのやむを得ない時代」と位置づけられるかもしれない。韓国、台湾などスペインの同様のコースで経済成長と民主化を成し遂げたことからそれは裏付けられる。
 現在スペインでは発展の中で「過去の忘却」が進んでいるが、フランコ体制の評価については「功」「罪」ともに詳しく論じられるべきと私は考えている。それは現代スペインとの「連続性」を考える上で必要だろう。

 なおピカソは「『ゲルニカはスペインが民主化した後、祖国に帰してほしい」と遺言していた。ニューヨークの近代美術館にあったこの作品がスペインに戻ったのは 1990年代である。

マドリードの古くからの中心街プエルタ・デル・ソル(太陽の門)広場。周囲の景観に溶け込んでマクドナルドもある。
マドリードB

ピカソからスペイン史を読む(後編)

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マドリード中心部のシベーレス広場の噴水。
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