マドリード二日目は、午前中に王宮に行くことにした。午後はトレド・ツアーを申し込んでいたので、午前一杯かけて王宮と周辺の街をまわろうという計画である。

 王宮に着くまでは街の散策である。最初に目抜き通りのグランビアまで地下鉄で行き、そこからソル広場(プエルタ・デル・ソル)、マヨール広場など旧市街を経由して王宮まで行く。うまい具合に全て徒歩圏なので、散策にはもってこいだ。
 
 マドリードの街並みを尊大なけだるさ」と評した人がいる。確かに古い建築物にはこれでもかと言うばかりのごてごてした装飾が付いている。それもふとすれば「宮殿の延長かと錯覚させるような効果がある。ただあまりにも数が多過ぎて、うっとうしくも感じられる。整然かつ優美なバルセロナと比べれば、一層明らかだ。
 しかしこれも王都に不可欠な装飾と考えれば、当然とも思える。
 私は幸いなことに、マドリードの街並みに圧迫感を覚えなかった。ついでに言うと、マドリード市民もお高くとまっているという評価が多いが、取っ付きにくいだけで根はいい人が多いと思われた

 さてマドリードの地理的位置はスペインのど真ん中」である。これがこの街の性格、さらに「この国のかたち」を象徴している。

 外部から見ると、スペインは画一的なイメージがある。地理的に見ても、フランスとはピレネー山脈で隔てられ、三方は海(地中海と大西洋)である。
 しかしこれまでに見たバルセロナとセビーリャから明らかなように、スペインの周縁部は外部から強い影響を受けてきた。さらに北部には独自性の強い民族が住むバスク地方」がある。これらの地方はともすれば遠心力により、スペインから自立する可能性もあった。    
 こうして見ると、

スペインという国は独自性の強い地方の連合体というのが実態

であろう。その統一の要が首都マドリードである。

 統一スペインの主体となったのはカスティリャ王国」であった。現在のスペイン語を正式にはカスティリャ語カスティジャーノ)」と呼ぶのはこの王国に由来する(なお洋菓子の「カステラの語源はこの国名である)。

 この国の最初の中心は北部内陸のブルゴスであった(IntroductionAの図1参照)。ここから分かるように、この王国は内陸政権として統制指向が強かった。そして レコンキスタの主力となり、南に領域を拡大していった。
 中世ヨーロッパ諸国には定まった首都というのはなく、国家中枢は「移動する宮廷」だったわけだが、相対的に長期の宮廷所在地を「首都」と定義するなら、この王国は首都を

ブルゴス→バリャドリード → トレド


、と南下させた。トレドからマドリードに遷都したのは1561年である。
 
 マドリードは以前には軍事基地があったものの、街としては全くの新興である。地形も全くの平地で樹木が乏しく、夏は「酷暑」、冬はかなり寒いなど条件がいいとは思われない。
 由緒が古く街としても栄えていたトレドからここに遷都した理由は判然としない。おそらくトレドが手狭となり、大王国の首都としてより広大な土地が求められたということだろう。また水の便が良いということも大きかったようだ(現在でも街中に噴水は多い)。
 遷都した後は、スペインのど真ん中に位置するという地理的条件から各地からの交通路が交差することになる。そして王都として、宮殿はじめさまざまな建築物で飾られることになる。建物と共に人も集まった。現在の人口は300万人で、スペインの経済発展による賑わいを最も感じられる街となっている。

 グランビア、ソル広場を経由して、ようやく王宮が見えてきた。この辺りになると、王宮の近くらしく優美な建物が多い。

 そして王宮はルネサンス様式とバロック様式の折衷ということで、豪華だが優美さも併せ持っている。外見は、フランスのベルサイユ宮殿と似ている。その認識は正しかった。このことを説明するため、スペイン王室の歴史を語らねばならない。(続く)

マドリードの目抜き通りグランビア
王宮前を巡回する騎馬警官
マドリードC

王都の品格(前編)

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王宮周辺は優美な建物が多い。写真はオペラ座