午前中に王宮見物を済ませた後、午後はトレド・ツアーの予定である。しかし集合時間は3時。ほとんど夕方じゃないか。こんな時間に出発するのはなぜ? 
 そういう疑問を抱えながら、集合場所である「ホテル・カリフォルニア」に着いた。出発まで間があったので少し休むことにした。ここは有数の老舗ホテルだそうだが、落ち着いた雰囲気の中で体を休められるのはありがたい。
 そして3時に出発。参加者は私を含めて10人ほどだ。

 バスで高速道路に入り、しばらくは平坦な土地が続く。ここでガイドが説明した。「ラ・マンチャ地方に入りました」。

 「ラ・マンチャ」と言えば、「ドン・キホーテ」である。「ラ・マンチャの男」と言っただけで彼の名が思い浮かぶほどである。余談ながら、この題名のミュージカルが松本幸四郎・主演で30年にわたって上演されていることはよく知られている。彼の実娘・松たか子がヒロイン・ドゥルシネアを演じているのも有名だ。

 さてラ・マンチャだが、マドリードとアンダルシア地方の間に位置する広大な地方であるドン・キホーテの舞台ということで著名だが、それ以外に呼び物は全く無い。旅行者にとっては観光地を巡る際の通過地でしかない。しかし作品中ではドン・キホーテの活動範囲はほとんどラ・マンチャ地方である(少なくとも前半は)。ドン・キホーテの脳内で「ファンタジー」が華麗に飛翔するのとは対照的に、作中の現実では彼はひたすらこの地方をうろうろするわけだ。
 
 ドン・キホーテと言えば、巨人と誤認した風車に突っ込んだという話がやたら有名だが、風車はこの地方の風物詩である。雨が少なく水が乏しいこの地方で風車は不可欠な動力だった。ただ現在、風車は観光用として残されているのみだ。とは言え、その名残りとして風力発電の風車が多く建てられている。

 ラ・マンチャの語源はアラビア語の乾いた土地」である。その名の通り、ここは「荒野のスペイン」の代表的な土地である。乾いた砂一面の荒野にポツンと風車があり、所々に放牧されている羊の群れが見られる。これが「ラ・マンチャ」のイメージだ。
 
 旅行者にとっては旅情をかき立てられるが、私はそういう光景を見られなかった。何とも興ざめな話だが、風車が残っているのはラ・マンチャのごく一部である。また車窓からも緑の樹木が結構見られ、「荒野のラ・マンチャ」を期待していた私は肩透かしを喰った。というわけで、ここに載せた写真は絵はがきのものである。
 
 かつては羊毛ぐらいしか産業が無く、非常に貧しかったが、現在は羊乳チーズなどが主要産業となり、人口が少ないながらも所得水準は上昇しているらしい。
 ついでにイメージ外れだが、トレドもラ・マンチャ地方に属すIntroductionAの図1参照)。

 ドン・キホーテの時代、この地方は非常に貧しかった。広大で単調なこの土地に将来の展望が持てない郷士(下級貴族)は、アメリカ大陸へ渡った。すぐ南のアンダルシア地方のセビーリャがアメリカへの出発港だったので、冒険心が刺激されたらしい。
 そしてこの文脈でなぜラ・マンチャの郷士であるドン・キホーテが旅立ったのか、という謎が解き明かされる。

 このように『ドン・キホーテ』は当時のスペインの社会事情を織り込んでいる。もう一つ紹介しよう。
 サンチョ・パンサと言えばドン・キホーテの従者だが、彼の隣人でイスラーム教徒のリコーテというのが登場する。作中では「イスラーム教徒追放令」が出され、リコーテが「自分はスペイン語しか話せないのに、なぜスペインから追い出されるんだ?」とサンチョ達に嘆く場面がある。この作品が書かれた16世紀半ばのスペイン社会の事情が迫真の描写で表されている。「イスラーム教徒追放令」については後に語ることになろう。

 『ドン・キホーテ』という作品を詳しく論じる余裕は無いが、この作品の魅力は功利に走りがちな世間に対し、理想と正義の大切さを示す」ということなのは指摘できるだろう。作者セルバンテス自身、非常に苦労の多い人生をたどったので、かなり部分彼の理想がドン・キホーテに投影されているのは言うまでも無い。
 もっともストーリーにこのような教訓と共にギャグを織り込むのが、世界文学史上でも破格のことと思う。ドン・キホーテの行動には何度もバカ笑いさせてもらったが、500年前の作品でこのように笑えるのは全くもって驚異だ。同時代の文学ではシェークスピアが活躍しており、日本では戦国時代だった。そこからもこの作品のすごさが読み取れる。

 このような魅力からドン・キホーテが現在スペインのシンボル」とされているもの不思議ではない。また作者セルバンテスの名はスペイン語教育、スペイン文学維持・普及委員会」の名前に冠されている。生前は不遇だったセルバンテスへのはなむけと言えるだろう。

 そうこうしているうちに、トレドに到着した。「街ごと世界遺産」である。

ラ・マンチャ

ドン・キホーテはいずこに

マドリードのスペイン広場にて。ドン・キホーテ像周辺は格好の撮影スポット。 後方には作者セルバンテスの像がある。
ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサの像。彼らはスペイン国民のシンボル的存在である。
上) 典型的なラ・マンチャの光景。荒野に風車が点在する『ドン・キホーテ』そのままのイメージだ(筆者所蔵の絵はがきより)。

下) 高速バスの車窓から見たラ・マンチャの光景。灌漑設備の充実で決して荒野ばかりではない。
次ページへ