信長の天下統一の出発点となった清洲城。江戸初期まで尾張の中心で、東海道筋最大の都市の威容を象徴していた(人口約7万人)。写真は模擬天守で、新幹線からもその雄姿が見える。
 本来の城跡は近くの清洲公園で、園内に織田信長像が建つ。

 初めて聞く人には「これが名古屋弁か?」という印象を与えそうだが、これにはちゃんとした裏付けがある。
作者本人によれば、「『尾張藩の御言葉集』を参考にした」とのことだが(『文藝春秋』'93年1月号所収の勝新太郎との対談より)、後述のように尾張藩の武家言葉は三河弁色(愛知県東部の方言、後述)が強い言葉である。たぶん『御言葉集』をそのまま参考にしたわけではないだろう。
 『名古屋方言の研究』など諸研究によれば、「江戸時代の尾張弁の特徴は”良からあず(いいだろう)”、”あらうず”(あるだろう)、”そうでや(そうだ)”など」ということは定説らしく、津本陽もこれら研究を参考にした可能性が強い。もちろん名古屋弁として有名な「〜だわ」「〜がや」もこの時代からあったようだ。
 ではこれらの言葉を戦国時代の信長は使っていたのか?
 推量の意味の「良からあず」などについてはポルトガル人の宣教師ロドリゲスが作った日本語辞書『日本大文典』に記述があり(他に、意思表現で"行かうず”、”飲まうず”等)、尾張で使われていたことは間違いないだろう(語源は、古典文語で推量・意志を表わす「〜むず」)。
 「〜でや」は断定の助詞で、「〜である」の省略形から来た。江戸時代には使われていたことは確実で、『東海道中膝栗毛』にも記述がある。後に「どうでゃ」『何でゃ」と変化し、今は「〜」で落ち着いた。しかし戦国時代に使われていたかは不明である。
 結局ドラマや小説の方言は「味付け」以上の意味は期待しない方がいい。そもそもリアリティを追求すれば、現代人には全く意味不明の言葉になるだろう。
 
 少々深入りしすぎた。全体的に『下天は夢か』の信長のセリフを点検すると、
 
   尾張弁の語尾を散りばめながら、古典語の単語や武士らしい言い回しを交えた言葉
   いかにも武士の信長がしゃべっていそうな尾張弁


というふうに特徴づけられる。信長が使う尾張弁の語尾は上の「〜でや」ばかりでなく、「〜だわ」「〜だぎゃ」「〜だで」もあり、後の名古屋弁の姿を垣間見せている。ちょっと信長のイメージは崩れるかもしれないが。
 ここでちょっとした遊びを試みる。名古屋弁の代表的言い回しとされる「どえりゃあうみゃあ」を信長はどう言うか。『下天は夢か』の信長の話し方に則ると次のような感じになるであろうか。

             「格別なる美味だわ。見事でや。誉めてとらそうず。

 津本陽はリアリティ重視なのか、小説の中で歴史上の人物に出身地の方言でしゃべらせている。信長の他に、武田信玄は甲州弁で、徳川吉宗は紀州弁で話している、という具合である。

では秀吉はどうか。
 秀吉の場合、ドラマでも小説でも尾張弁というか名古屋弁らしき言葉を使っていることが多い(全部ではないが)。参考までに最近の大河ドラマで検証してみよう。
タイトル(放映年) 秀吉を演じた俳優 尾張弁使用状況
秀吉』('96年) 竹中直人 秀吉本人は使用せず。母なか(市原悦子)のみが使用。
利家とまつ
('02年)
香川照之 ほぼ完全に尾張弁を使用。出世するにつれ、抑え気味に。
功名が辻』('06年) 柄本明 基本は普通の武士言葉。時々尾張弁を混ぜることあり。

農民出身で、天下人となった後も庶民気質を失わなかったという秀吉。フィクションの世界で尾張弁をしゃべらせる演出は、実際の彼のそんな性格を如実に表わしているのだろう。
 
 では実際の秀吉がどんな尾張弁を使っていたか。
 史料では手がかりはほとんど無い。彼の手紙で尾張弁らしき単語が現れるらしいが、これらもその当時の尾張弁かは確証がない。京都に来て以降覚えた単語も含まれる可能性があり、軽々しく判断できない。
 

 あと『秀吉』放送時に『テレビステラ』に載っていた話だが、天下人となった後、秀吉が能を観賞していた時、突然妻の北政所と口論になったという。その時のやり取りがどうも尾張弁だったらしく、お付の人々には意味不明だったらしい。「鳥のような言葉だった」というのがお付の人の感想である。「猫」ではなくて、「鳥」だったわけだ。ただこの話は記憶に基づいているので、多少曖昧な部分がある。出典が何かは分からない。
 『日本大文典』など当時の宣教師の記録を基に推定すれば、「そうでや」「行かうず」等の言葉を秀吉もしゃべっていたと思うが、確実な証拠とはいえないだろう。なお津本陽の秀吉を主人公とした小説『夢のまた夢』では、秀吉に上の信長と同様のことばをしゃべらせている。


 この項を終わるにあたって、ある疑問について答えておきたい。尾張出身の信長・秀吉が天下を取ったのに、名古屋弁が標準語になる可能性はなかったか?  
 

 それは無理だったのだろう。おそらく当時すでに室町幕府の礼法を基に武士同士の共通語(京都語が基か)が形成されていたのであろう。『日本大文典』の「京都の上流階層の言葉が標準語”と全国の人に認識されていた」との記述がそれを裏付けよう。信長・秀吉の配下は当然尾張出身者がその中核だが、信長の上洛の過程で、美濃さらに畿内の多くの武士が配下に加わった。そのような中では、敬語を伴った形での武家共通語がコミュニケーションの主流であり、尾張弁の使用は尾張人同士の私的な会話で限定されざるを得なかったのだろう。上の秀吉のエピソードもことばの使い分けを行っていた何より証拠である。たとえ冒頭で引用した随筆の記述のように、一部の尾張弁の単語が京都語に混じることはあっても、大勢を動かすには至らなかったのだろう。「夢の無い話だ」と思われようが、尾張弁が全国共通語となるような状況は全く無かったと言える。
 信長・秀吉の壮挙は、尾張の勢力の歴史上で最大にして最後の征服活動だったが、それは「拡大ではなく"拡散"」と言うべきものだった。結局尾張は交通の要衝としてそれなりに重んじられたが、基本的には東海道の一地方として埋没するようになる。三大都市圏の一つとして発展するのは、明治以後のことである。

 硬い話題が続いてしまった。全くの余談を言うが、名古屋出身の作家・清水義範の小説『金鯱の夢』では、明智光秀が本能寺の変を起こした理由を「信長が天下を取ると、"尾張弁”を標準語にするのでは?」と恐れたからだ、としている。
そもそも名古屋弁とはどんな言葉なのか〜名古屋弁の軌跡 信長・秀吉から名古屋嬢まで 〜

目次 @信長・秀吉の「尾張弁」                    Cこれぞ名古屋弁?! 全国に広まった名古屋弁
     A名古屋誕生!武士の『名古屋弁』とは?      D名古屋嬢のことば 「若者名古屋弁」とは?
     B「そうだなも」 古式ゆかしい町人の名古屋弁

織田信長豊臣秀吉。この2人が今で言う名古屋人であることは言うまでもない。信長は1534年、今の名古屋城二の丸付近にあった「那古野城」で生まれ(異説あり)、その後に清洲城に入ったが、岐阜に移る1567年まで尾張にいた。秀吉は1536年(1537年とも)尾張中村(現・名古屋市中村区)で生まれた。この2人は、名古屋城を築いた徳川家康と共に、名古屋の「三英傑」と呼ばれていることは有名だ。
 では信長・秀吉は名古屋弁をしゃべっていたのだろうか?
 答えは、しゃべっていた、としか言いようが無い。もっとも名古屋の街自体がまだ無いので、「尾張弁」と言うべきだが。
 江戸時代初期の随筆に「信長・秀吉の時代以後、尾張人が大挙上洛した結果、京言葉に多くの尾張弁が混じるようになった」との記述があるそうだが、この話の真偽はともかく、信長・秀吉とその配下の武士達が当時の尾張弁を話していた事は疑う余地が無いだろう。

 しかし農民出身の秀吉はともかく、信長は方言をしゃべっているというイメージが無い。ドラマや小説でも彼のセリフは標準語ばかりである。
 ところが信長尾張弁でしゃべっている小説があるのである!津本陽著『下天は夢か』がそれだ。下は長篠の合戦を前にした時の信長のセリフである。

        「柵木に待ち受けるのみにて良からあず。狙いて撃ち取るでや
東海夢華録の表紙に戻る
次のページへ
信長・秀吉の「尾張弁」

名古屋弁の軌跡とイメージについて書いていく。記述は、時代順である。小説などフィクション記述と実態の記述が入り混じってるが、「名古屋弁のイメージと実態」について幅広く知るためである。

秀吉のふるさと、中村(現・名古屋市中村区)。名古屋駅から少し離れた場所にある。街中に大鳥居が建っているのが特徴的だ。この先は、秀吉を祀る豊国神社の参道になっている。