もう一つ付け加えるなら、というのが大垣の特殊性を形作っていると思う。私が見聞した2つの例で、大垣が関西との交流が密であるということを検証してみよう。1つは、電車で北陸に行く際、大垣の高校生がクラブの対抗戦か何かで滋賀県で降車したことである。もう一つは、関ヶ原から大垣に向かう列車で滋賀県から通学しているらしい女子大生と遭遇したことである。確かに滋賀県は隣であるし、米原―大垣間をJRの直通列車が運行している。経済的交流も活発であるのも不思議はないと言える。関西との交流の大部分は、隣の滋賀県を通じたものであるのは間違いない。他にも大垣は三重県とも道路や電車などでつながっており、交流も少なからずある。
このように交通の交差路で、かつ関西への最前線という、ある種特権的な地理的位置が大垣の特殊性に寄与しているのは疑いない。関ヶ原の合戦を見ても、大垣付近は東と西の勢力がぶつかりあう場所、ということは明らかである。そのあたりの特性をことば(方言)についても探るのが次節以降の目的である。
図表3.4 :関ヶ原の合戦 関係地図
美濃が一国としてまとまりを持った時代には、大垣は美濃の中心である岐阜市を支える西の拠点としての位置づけだった。戦国時代の斉藤道三、これに代わった織田信長の時代に、有名な「美濃三人衆」(氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就)はいずれも大垣付近を拠点としていた。
しかし秀吉以降、統一政権の時代になると、美濃は複数の大名に分割統治されるようになる。元からある美濃の多元性(というか、地域ごとのバラバラぶり)が一層助長されるようになったわけである。こうして大垣城主と岐阜城主が別々に置かれる体制が固定された。秀吉の死(1598年)の当時には、次のようになっていた。
大垣城主) 伊藤祐盛〔3万石〕
岐阜城主) 織田秀信(信長の孫、幼名:三法師)〔13万石〕
こうした情勢の中で関ヶ原の合戦(1600年)を迎えることになった。この時、大垣城主は石田三成ら西軍首脳に城を明け渡し、大垣城は西軍の本拠となった。岐阜城の織田秀信も西軍についたが、関ヶ原の前哨戦に福島正則ら東軍先発隊に攻撃され、岐阜城は陥落して東軍の占領するところとなった。こうして岐阜城を東軍、大垣城を西軍が占める形でにらみあう中、徳川家康が美濃に到着した。戦前の下馬評では「大垣城攻防戦が天下分け目の戦いとなる」というのがもっぱらの予想だったが、長期戦を嫌う家康のおびき出し戦略から、両軍とも関ヶ原に移動した。大垣城から西方10kmほどの場所である。こうして大垣はとなったのである。
関ヶ原の結果は周知の通りである。徳川幕府初期は三代家光の時代まで大名配置の変遷が激しかった。ここで途中経過を省いて、江戸時代における大垣と岐阜市の支配体制を示すと次のようになる。
大垣) 大垣藩(戸田氏)〔10万石〕
岐阜市) 尾張藩領、加納藩(奥平氏、永井氏など)〔10〜3万石〕
かつての岐阜城下である岐阜町は尾張藩領だったが、市南部は加納藩領となるなど、岐阜市は細分されて美濃の中心としての地位を失った。一方、大垣は揖斐川流域の西美濃西部をまとめて支配する大垣藩(譜代)の中心として栄えることになった。現代まで続く岐阜市からは自立した大垣、という特色はこの時代に固まったと考えて間違いあるまい。
現代に話を移しても、大垣の自立ぶりは際立っていると言える。私の友人で大垣出身の人がいるが、その人は次のように言っていた。
「大垣は、西濃運輸と大垣共立銀行があるで、岐阜市に吸収されんのやって!」
この言葉は大垣の特徴を端的に表わしている。ということである。名鉄電車は岐阜市や各務ヶ原などには延びているが、大垣には通っていない。これを見ても分かるように、名古屋の衛星都市としての性格も希薄である。それにしても隣り合って、なおかつ人口で2倍以上の差があるにもかかわらず、岐阜市と大垣が別々の都市圏を作っているというのは全国的にもかなり珍しい、と思う。しかしその原因は、これまで述べてきたような歴史的展開にあるのである。
笹尾山麓の石田三成陣所からの遠望。左手に家康本陣があった桃配山、右手に小早川秀秋が陣を張った松尾山が見える。 |
天下分け目の決戦の地となった関ヶ原。上は「関ヶ原古戦場 決戦地の碑」。奥に伊吹山が広がる。 |
(4.2)
関ヶ原の合戦の際、西軍の本拠となった大垣城。江戸時代には戸田氏10万石の居城として、美濃有数の規模を誇った。 |