B織田VS武田 攻防の地

 江戸時代の東美濃は 小藩や尾張藩領、天領など複雑に細分された中山道という主要街道が通り、とりわけ重要な山林地帯である木曽(信州南西部)と直結する地域だけに徳川幕府は自らの支配を強く及ぼしたかったのである。もっとも大阪夏の陣(1615年)後、社会が安定したため、これらの地域の支配は御三家の尾張藩に委任されるようになる。
 東美濃の大名は東部のみに置かれた。次の2家である。

   岩村 :松平氏(2万石)         苗木 :遠山氏(1万石)

 その他の地域については、当初天領であっても尾張藩領となった地域、あるいは幕府直属の旗本衆(例えば木曽衆)の所領であった地域は、尾張藩の管理下に置かれるなどした。中山道の宿場町の多くが尾張藩の管轄下に置かれたり、天領のままだった多治見の陶器の生産と流通も尾張藩に管理されることになった。こうして東美濃西部は主として尾張藩領入った。
 
 こうした流れを受け継ぎ、明治以降は中央道中央線が開通し、東美濃は名古屋の通勤圏となった。近年ますます名古屋の影響が強まる傾向にある。
 
 しかし首都機能移転構想に関連して、リニア中央新幹線中津川に停車するなど東美濃地域を路線とする計画がほぼ固まっている。東西日本を結ぶ交通の大動脈として、この地域が脚光を浴びる日も近いと思われる。

虎渓山永宝寺(多治見市)。鎌倉末期(14世紀)の代表的寺院建築で、高僧・夢窓疎石が建てた。この地の高い文化水準を示す。
岩村城(恵那市岩村町)。信長の叔母が実質的な城主となり、「女城主の城」と呼ばれた。
 江戸時代は、親藩松平氏(2万石)が居城した。

その前にまず鎌倉時代から述べる。その際のキーワードは室町期の美濃の支配者”土岐氏”、 さらに明智光秀の発祥の地である。「土岐氏」は戦国以前の美濃の大名として有名だが、元々は東美濃西部を発祥の地としていた。土岐市土岐町、といった地名がそれを表わしている。そして明智光秀は、土岐氏の一族と言われており、「明智町」(現・恵那市南部)が生誕の地という。余談ながら、「明智町」は城下町でもあり、大正時代の建築物を集めた「大正村」もある。

土岐氏は室町時代に美濃の守護大名となり、主流は現在の岐阜市に移ったが、発祥の地である東美濃西部でも一族の者が支配していた。
 一方、
東美濃東部では遠山氏が鎌倉時代から一貫して統治していた。岩村城(現・恵那市南部)が本家筋だが、他に苗木城(中津川市)も主要な拠点である。「名奉行・遠山の金さん」こと遠山影元は苗木遠山氏の子孫である。つまり東美濃は「遠山の金さん先祖の地」でもある。

戦国時代になり、美濃の国主が斉藤氏となってもこの状態は続いていた。そうした中で尾張の織田信長の手が伸びてくる。信長は東美濃西部から美濃攻略に着手し、兼山城(金山城とも、可児市)に森可成を置いて統治の拠点とした。可成の三男・森蘭丸はこの城で出生したとされている。信長はさらに遠山氏を傘下に置き、自身の叔母「おつや」を岩村城遠山氏に嫁がせた。なお信長は苗木遠山氏の娘を養女に迎え、武田勝頼に嫁がせている。だが、信州を支配する武田は徐々に東美濃にも侵入してくる。
 
 1570年ごろ、岩村城の当主が亡くなり、おつやが実質的な城主として差配するようになった。こうして岩村「信長の叔母が女城主となった地」として知られるようになる。しかしこれ以後の戦国状況の激化の中、東美濃は織田VS武田 攻防の地となる。
 1572年武田信玄三方が原(静岡県浜松市)で徳川家康を攻めたのとほぼ平行して、武田配下の秋山信友が岩村城を攻撃した。城側は籠城で耐えたが、結局武田側と和睦した。その際の条件に従って、秋山信友がおつやと結婚したのだという。こうして結果的に岩村城は武田の支配下に入った。
 
 以後数年間は武田が東美濃東部の大部分を支配下に置いた、織田方は神箆(しんのう)城(瑞浪市)を拠点に東美濃西部で根強く対抗し、東部でも苗木城の遠山氏は織田方のまま抵抗を続けた
 1575年、織田・徳川連合軍が長篠(愛知県)で武田勝頼を破ったのを受けて、東美濃でも織田軍は反攻に転じて、東美濃一帯を奪還した。この時、岩村城は陥落し、秋山信友とおつやは信長の命ではりつけに処せられたという。

 戦後、東美濃各地に遠山氏や信長配下の武将が配置された。森蘭丸は出生の地・兼山城の城主となったという(在城はしていない)。1582年の武田攻めの時は瑞浪市の神箆城に織田軍の本営が置かれた。


 続く秀吉の時代には、森蘭丸の兄が東美濃全域を領国化することになる。本能寺の変(1582年)後の混乱期に森長可(森蘭丸の兄)は、兼山城を本拠に東美濃一帯を制圧し、豊臣秀吉からその支配を公認された(この時遠山氏は美濃から追われ、徳川家康に属した)。森氏は史上唯一の東美濃一帯を単位とする支配勢力だった。
 しかし長可の弟・森忠政は秀吉の死の翌年(1599)に信州川中島(長野市)に移封され、川尻氏(苗木城)、田丸氏(岩村城)など豊臣系の大名が入ることで東美濃は細分された
 しかし関ヶ原の合戦(1600年)の際、旧領回復を目的とする遠山氏など東美濃の旧領主が徳川方に付き、信州から進攻してこれらの城を攻撃した。戦後、遠山氏は東美濃の旧領を回復した
 なお、この時代に茶人武将・古田織部(漫画『へうげもの』の主人公)が活躍し、彼の指導で以前から東美濃で盛んだった美濃焼がより独創的なものになった。古田織部によって 東美濃の「美濃焼」はさらなる名声を得たのである。

森蘭丸ふる里の森(可児市兼山町)。かつての金山城跡。今は桜の名所となり、市民の憩いの公園となっている。

ここでは、東美濃地方の歴史について考察する。

史料について断っておかねばならないが、HP東濃戦国記』(リンク参照)を参照した。というのも「東美濃の歴史」を扱った書籍が全くと言っていいほど無いからである。「岐阜県史」の類は多いが、当然のごとく西美濃中心の記述であり、東美濃の様子はほとんど書いていない。各市町村史はあるが、当然バラバラな記述で、広域的な流れが分からない。そうした中でこのHPは「東美濃の全体的な歴史」を解説したものとして稀有な労作である。

そこから導かれた東美濃の特性だが、「尾張・西美濃と信州にはさまれ、両者の勢力がぶつかった」という性格が顕著である。

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中津川宿(中津川市)。中山道沿いには多くの宿場町が栄え、今でもいくつかの町屋が残っている。
東美濃地方の要、多治見駅リニア新幹線の路線となることがほぼ確定的となり、それを見込んで駅舎が大幅にリニューアルした。