図6.3:戦国時代の遠州と周辺地域
天竜川(浜松市・浜北区)。日本有数の大河で、北の信州につながっている
浜松城と城内の「若き日の徳川家康像」。家康により遠州の拠点として築城された。武田信玄との三方が原の戦いの舞台ともなった。後に家康が天下人となり、また以降の城主で幕府老中までなる者が多かったことから「出世城」の異名をとる。
掛川城。。山内一豊が築き、江戸期には譜代大名が在城した。現在の天守は木造で忠実に復元されたものの嚆矢となった。
遠州ってどんな所?

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〜遠州の歴史と地政学〜

新居関所跡(湖西市)。浜名湖岸の一帯を管轄、東海道でも箱根関に次ぐ厳しい取調べで有名だった。内部は人形で当時の関所を再現、隣に資料館も併設されている。

ここでは遠州の歴史について解説する。現代との連続性を考慮して、戦国時代以降の話を取り上げる。

 遠州の地理的位置付けについては、

  東海道によって東西と結びつき、
  天竜川によって北の信州(長野県)と結びつく


ということが言える。これは愛知県の東三河とも共通する。
 
 戦国時代の遠州には、東から駿河(静岡市付近)今川氏西の三河から徳川氏、そして北の信州から武田氏が侵入してきた。これは上で述べた遠州の地理的特性と密接に結びついている。以上のことは戦国史ファンの間でよく知られている。
 その一方、遠州の地元勢力は小勢力分立で、しょせん外部勢力に征服され、右往左往するだけの受動的存在と思われがちである。しかし歴史は多面的に見なければ真実にたどり着けない。一見「風見鶏」に見える遠州の地元勢力の動向は必死の生き残り戦略であり、またこれら小勢力の帰趨が逆に大勢力に影響を与えたとも言えるのである。
 
 この項では遠州の地理的特性を
東西および北方の大勢力の はざまで地元の小勢力が 独自性を主張した地 と捉え、なるべく遠州の小勢力の主体性を考えた叙述を行っていく。

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 まず戦国時代の遠州は 在地の小勢力割拠の中、今川氏が支配を確立したと言えるが、これを説明するため、室町時代の静岡県の支配体制を述べる。駿河と遠州を領国とする守護大名は以下の通りである。

   駿河 今川氏     遠州 斯波氏

なお、斯波氏は越前(福井県)と尾張(愛知県)の守護も兼務していたので、現地の支配は在地の小領主が行った。横地勝間田、または井伊といったところが代表的な遠州の在地勢力である。
 
 このような室町体制も応仁の乱後に徐々に崩れ始める。今川氏は乱後、遠州を征服すべくさかんに軍事行動を起こした。しかし遠州在地勢力の抵抗は激しく、今川氏の当主、義忠は戦死、今川氏はいったん遠州から撤退した。跡継ぎの今川氏親は幼少だったので、後継者争いが起った。これを調停したのが氏親の叔父たる北条早雲である。今川氏の後継者争いは北条早雲が表舞台に立つきっかけとなる。
 
 今川氏親は
成人後、10年余り遠州に出兵を繰り返した末、1507年には遠州全土を制圧した。この後、遠州は今川氏の強力な支配の下に入り、さらに三河進出の兵站基地ともなる。在地勢力も今川氏の家臣団に組み入れられた。
 20年ほどは遠州でも反乱が断続的に起ったが、やがて今川氏支配は安定する。遠州在地勢力が今川氏に反抗したのは、強力な支配で自立性が脅かされることを恐れたからだが、遠州各地に今川譜代の武将が配置され、また検地の実施で土地支配の介入は強まっていった。しかし伝馬制による交通路整備で遠州にも恩恵がもたらされた
 余談だが、1550年頃に後の豊臣秀吉が尾張から流れてきて、遠州で今川配下の松下加兵衛に仕えたという(松下氏は曳馬城主(現在の浜松市)飯尾乗連の家臣、厳密には今川氏にとって陪臣となる)。

 このような安定は1560年、桶狭間の戦いでの今川義元の戦死で崩壊に向かう。とりわけ遠州で在地勢力の反乱が続発したのである。この情勢の中で1568年、武田信玄徳川家康が今川氏を挟撃したのである(この時、今川氏真が避難したのが掛川城である)。これによって武田と徳川が次のように今川領国を分割することになった。

     駿河→武田氏     遠州→徳川氏

 この後、徳川家康は遠州に浜松城を築いて、そこに本拠を移した。遠州が大名の本拠となるのは史上初のことだった。しかしこの頃から武田氏の遠州侵出が活発になる。遠州は
徳川VS武田 攻防の地 となった。
 その最初の大規模な合戦は、1572年に浜松城付近での三方が原の戦いである。武田軍は東海道と天竜川の二方向から怒涛の進撃を開始。遠州の在地勢力が次々に降伏するのに歯止めをかけるため、また同盟者・織田信長への義理立てのために、家康は武田の半分の兵力で無謀と言うべき決戦を挑んだ。しかし大敗北を喫して、九死に一生を得ながら浜松城に逼塞する。以後数年間は武田が遠州の東部と北部を支配下に置き、奥三河にも勢力を広げた。
 1575年の長篠の戦いの後に武田軍は三河から撤退したが、遠州では武田と徳川の攻防戦が続いた。しかし武田は徐々に衰え、高天神城の攻防戦(現・掛川市)で遠州支配の帰趨が決まった。1581年、これに勝った徳川氏は遠州を完全に制圧した。結局戦国末期に徳川氏は遠州を完全に支配下に収めたのである。

 ところで家康配下で遠州人の有力武将がいる井伊直政である。井伊氏は平安時代から浜名湖北の井伊谷(現・浜松市)にあり、南北朝時代にも活躍。井伊氏は今川氏配下としても活躍したが、家康の遠州制圧で徳川家臣団に組み入れられた。
 井伊直政は他国人でありながら徳川家の宿老となり、その武功によって「徳川四天王の一人と讃えられた。さらに外交でも手腕を発揮して豊臣秀吉にも高く評価された。関が原の合戦でも武功を立て、彦根(滋賀県)35万石に封じられた。井伊家は徳川幕府の大老を代々勤め、遠州出身者で出世頭となった

 なお、この直政の先代当主は「女城主」井伊直虎で(直政にとって、父の旧婚約者に当たる)、2017年のNHK大河ドラマ『女城主・直虎』で柴咲コウが演じている。

 さて、家康は1590年に関東に移封され、遠州を含めた旧領は豊臣系の大名の管轄下となった。遠州の主な大名は以下の通りである。

  掛川) 山内一豊(6万石)    浜松) 堀尾吉晴(15万石)

彼らを含めて、駿河および三河の大名は当時、尾張・清洲城主だった豊臣秀次(秀吉の甥)の配下であり、それを補佐して東海道を固めることを目的として配された。
 しかし関が原の合戦(1600年)の際にはいずれも東軍に属すことに決して徳川家康に屈服した。この中で山内一豊は居城の掛川城を家康に進呈するなど、家康への傾斜が際立っていた。山内は戦後、土佐20万石と大加増された。

 徳川の天下となった江戸期において、遠州には徳川譜代の大名領や天領(幕府直轄地)が散在することになった。このようになったのは、秀吉時代と同じく
中央政権にとって遠州は東海道支配の要 ゆえに腹心の有力者を派遣しただったからにほかならない。主な大名は次の通りである。

  掛川) 太田氏など(6万石)    浜松 水野氏、井上氏など(5万石)

ほかに相良(現在の牧之原市)で田沼意次の子孫が2万石で封じられた。
 このように遠州には幕府高官が在封したが、入れ代わりが激しかった。特に浜松などは歴代城主で老中までなる者が多かったので、「出世城」とまで称された。
 有名なところでは江戸後期に水野忠邦が城主となっている。教育の普及や軍事の近代化で成果を上げたが、倹約令の一環として浜松祭りの名物「大凧あげ」を禁止したものの領民の轟々たる避難で撤回に追い込まれたというエピソードが知られている。
 ところで水野氏の後の井上氏が封じられた際前任地の上州群馬県から繊維機械の技術を導入したこれが後に当地のヤマハホンダスズキなど工業の基盤になったのだという。

 明治になって、遠州は駿河、伊豆と共に静岡県を形成した。東海道の交通が整備され、また前述の世界的メーカーが誕生するなどして県内一の工業集積地となった