同じ三河と言っても、徳川は西三河のよそ者。 むしろ今川に親近感を感じる

どこまで本気か分からないし、一般化するには無理がある話だろうが、東三河の住民意識の一例としては興味深い。
 もっとも家康在世時に東三河の国衆が徳川家にどれほどの帰属心と忠誠心を持っていたかまでは調べようがない。

 家康の江戸移封後は、豊臣秀吉の家臣・池田輝政が吉田城主となり、15万石で入部した。 この時代、石高にふさわしいように城と城下町が整備された。
 江戸期に入ると、東三河には吉田(豊橋)と田原に藩が置かれた。それぞれ藩の入れ代わりがあったが(戦国期の旧主の牧野氏と戸田氏が藩主だったこともある)、江戸中期以降、次のようになった。

吉田藩) 大河内松平氏(7万石)   ・田原藩) 三宅氏(1万石)

前者は老中など幕府高官になる者が多く、領内の整備はおろそかになりがちだった。 ただ藩校の時習館は現在、当地の有力進学校として受け継がれている。 一方、後者は家老の渡辺崋山が有名である。「蛮社の獄」(1837年)で弾圧された蘭学者として有名だが、藩内の改革や領内整備に成果を挙げた。

 このように、江戸期の東三河には親藩・譜代の小藩が並立したが、 東海道が通り、その恩恵を十分に受けたさらに信州や伊勢との交通も整備されるなど、東西南北とのつながりが地域に好影響を与えた。。

(上)長篠古戦場の復元馬防柵
(下)長篠城付近の光景。川に面した要害の地であることが分かる。(共に新城市)
田原城の隅櫓と城門。田原は渡辺崋山の故郷である。
長篠燃ゆ

(3)

〜大勢力のはざま 東三河の歴史〜

豊橋市公会堂。現代に至るまで交通の要衝であり続ける豊橋の近代建築の代表的存在である。

すでに5.1(2)で三河全体の歴史を概観したが、記述の中心はどうしても西三河となってしまった。ここでは東三河を単位とした歴史を述べる(以下、特に戦国史については『三河戦国史』『東三河の戦国時代』を参考にした、リンク内の当該HPを参照)。

 前ページで説明したように東三河の地理的特性は静岡、長野方面からの影響を受けるということである。東三河地域の歴史にもその地理的特性が大いに影響している。さらに東西南北の交通路が交差する「交通の要所」という利便性もある。そして比較的温暖な気候もあずかって、この地域は温和な気質の地とされている。これは家康など徳川家臣団の出身地である西三河とは大いに異なる
 以上を前提として東三河の歴史を述べる。最初に結論を言えば、この地域の交通の利便性は平和な時代には大いに利益をもたらすものであったが、戦乱の時代には近隣の大勢力が侵出しやすくなるという厄災をもたらした。そのためどうしてもこの地域は受動的な印象を持たれてしまうが、ここでは大勢力のはざまで小勢力が独自性を主張した地ということで、なるべく東三河の人々の主体性を描き出したいと思っている。

 まず古代の話だが、通説では7世紀から8世紀初期の段階で現在の西三河のみが「三河国」、東三河は「穂国」とされていたという。その後、両国は統合されて「三河国」となったが、三河の国府は現在の豊川市に置かれた。近畿から見れば、伊勢から海上ルートで行きやすいこの地の利便性が高かったということである。それは鳳来寺山豊川稲荷など名刹がこの地域にあることに示されている。
 このように栄えた東三河だが、鎌倉時代になると、守護所が足利氏の地盤である西三河に置かれた。このため、東三河はやや影に回ることになった。

 そして戦国時代の歴史を見ていくわけだが、そのなかでは二つのキーワードがある。一つ目は 「豊橋の三英傑」である。名古屋に「三英傑祭り」があり、信長・秀吉・家康といった愛知県が生み出した三人の天下人を記念していることはよく知られている。一方、豊橋にも「三英傑祭り」があるのである。この三人とはいずれも吉田城(豊橋市)にゆかりのある以下の人物である。

牧野古白(吉田城の建設者)
酒井忠次(家康の家臣、吉田城の城代)
池田輝政(秀吉の命で吉田城主となり、大改築を行う)

もう一つのキーワードはここの表題にもあるように「長篠の戦いの舞台」ということである。この二つのキーワードを軸に戦国史を語ろう。

 室町時代の三河は守護権力が弱く、小勢力分立状態だったが、東三河一帯は一時守護だった足利一族の一色氏の勢力圏だった。これが応仁の乱の後まもなく下克上で倒される。そして戦国初期の東三河では以下のような三勢力が割拠していた(5.2の図5.3を参照)。

戸田氏(田原市)     ・牧野氏(豊川市)      
奥平氏菅沼氏など山家三方衆(新城市など奥三河)

現在の豊橋市は戸田・牧野両氏の係争地だった。こうした中で遠州を支配下に収めたばかりの今川氏が東三河に侵攻、牧野氏は支配下に入った。上で挙げた牧野古白吉田城を築いたのは、今川氏の意を受けて、戸田氏、さらに西三河の松平氏に対する防衛拠点とするためだった。これ以後、牧野氏は主に今川方の武将として活動する。戦国前期の東三河は在地の小勢力割拠の中、今川氏が進出したとまとめられる。
 なお全くの余談だが、武田信玄の軍師・山本勘介は一説によるとこの頃、豊川市の牛久保に生まれたという(07年の大河ドラマ『風林火山』では折衷説で、生まれは静岡県富士市、そして養子に入って豊川市で青年期を過ごしたとされていた)。

 そして1520年代後半になると今川氏の勢力はやや弱まり、松平清康が上の三勢力を破って東三河を制圧した。「松平氏による三河統一」である。この辺りの情勢は、地元出身の宮城谷昌光が小説『風は山河より』でその雰囲気を伝えている。しかし松平氏の東三河支配は、地元勢力を温存したままの軍事的覇権だった。
 1535年に松平清康が暗殺され、松平氏自身が一族分裂で騒乱状態となる。松平氏の東三河支配も短期で終わり、牧野や戸田といった東三河の大名は自立を画策した。この頃、今川氏も内紛や東部国境での北条氏との対決に忙殺され、東三河に介入できなかった。
 1540年代半ばまで織田信秀(信長の父)の勢いが強く、西三河の国境地帯まで版図を拡大した。戸田氏はこれと結んで勢力拡大を図ろうとした。今川氏の人質に赴こうとしていた松平竹千代(徳川家康)が戸田氏に奪われて、織田氏の人質に入ったのはこの流れによる。戸田氏はこの時期、知多半島南端も領有し、三河湾一帯に広く勢力圏を築いていた。
 しかし1550年に入る頃には今川義元が体制を確立し、戸田氏などの抵抗を排して東三河を制圧、織田氏も三河から駆逐した。こうして東三河は今川氏が完全支配することになった(西三河は松平氏家臣団を通じた「間接支配」だったという)。

 このように今川氏の強固な支配にあった東三河だが、1560年の桶狭間の戦いでの義元討ち死によって、再び流動化する。再び戸田氏や奥平氏などが自立する一方、豊橋付近を中心に今川勢力も残存していた。このような中で今川氏から自立した徳川家康が1564年に東三河を制圧した。徳川家康は、東三河制圧によって「三河を統一」したのである。牧野、戸田、奥平といった東三河の大名たちは「徳川家臣団」に編入され、後に「譜代大名」として老中までなるほどに遇された(菅沼氏は旗本となった)。
 一方、吉田城には酒井忠次が配され、東三河を管轄、この一帯の武士達の旗頭となった。

 徳川家康はこの後、遠州を制圧し、本拠を浜松に移した(1570年)。この辺りから信州から武田信玄が進出を開始する。東三河は遠州と並んで徳川VS武田 攻防の地となった。この頃、家康自身も武田氏対策のため、しばしば吉田城に駐屯した。
 1572年、浜松北方で三方が原の戦いが行われ、徳川軍は大敗。浜松城に逼塞を余儀なくされる。その後、武田軍は奥三河(東三河北部)にも侵入し、野田城(新城市)まで陥落させた。しかしここで武田信玄は重態となって撤退を開始、そして南信州の駒場で死去した。このため東三河から南信州への街道は「信玄 死の道」と称されている。
 武田勝頼の代となっても、奥三河は武田氏の勢力圏であったが、長篠城(新城市)の奥平氏が徳川についたことで「長篠の戦い」が勃発した。この戦いについて「織田信長が大量の鉄砲で武田軍を破った」ことばかり語られるが、地政学的には「奥三河で接する武田と徳川の激突」だったのである。奥平氏は戦いの最中、武田軍に包囲されながら長篠城で必死に籠城戦を続けていた
 この戦いで大敗した武田軍は奥三河から後退する。なお、現在でも長篠古戦場付近には馬場信春はじめ戦死した武田の武将の墓が多く残る。

 このように東三河の戦国史では今川、武田、徳川といった大勢力の攻防に目が向きがちだが、その背後に牧野、戸田、奥平といった地元勢力の必死の生き残り策があったことを忘れてはならない。視点を変えれば、東三河地元勢力が大勢力の消長に影響を与えたことは明らかだ。

 長篠の戦いの後は、東三河は完全に徳川の勢力圏だった。ところで徳川氏に関して東三河の住民の意識はどのようなものだったのだろうか? これについて、豊橋出身の友人は下のようにコメントした。

鳳来寺山(新城市)。7世紀建立されたという記録が残る。東三河が古くから栄えたことを示す。徳川家康の母がここで家康の誕生を祈願したという。

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江戸期の宿場町の様子を伝える「二川宿資料館」(豊橋市)。